― 【ご報告】―

SNSやメールでたびたび見るこの言葉に、心がざわついた経験はないだろうか?

人生において、新たなステージに入った【ご報告】をする人。

受ける側は【ご報告】されることによって、相手との関係性を見直したり、自らの人生や現在地を振り返ることになるだろう。

この文字を目にした人は、誰もが違う明日を迎える。

これは【ご報告】からはじまるストーリー。

▶前回:「あの子といると、自分がみじめになる」出世頭の同級生に嫉妬。しかし、彼女の仕事ぶりは実は…




Vol.6 <ご報告:引退しました>


「ハァ…何度掃除しても結局元通りなっちゃうのよね」

一通りの家事が一段落した昼下がり。

夫と小学生の双子男児の母である安田仁海は、パサパサの長い髪を結わいて、やっとランチにありついた。

昨日のカレーの残りを食べながら、スマホをなにげなく手に取る。

専業主婦といえども、慌ただしい日常。この時間が仁海の唯一の安らげる時間だ。

Instagramを開くと、ある投稿が目に留まる。

「え、嘘…」

<村井智成、引退することを決断しました>

キャプションの内容とは裏腹に、太陽の光降り注ぐ中、サッカーボールを手に笑顔を見せている男の姿。

元日本代表のサッカー選手。彼は実は、仁海の元恋人であった。

別にフォローはしていなかった。話題だからか、たまに覗いていたことがあるからなのか、なぜか表示されてしまっただけ。

スマホを見つめる仁海の胸が、きゅううと締め付けられ、スプーンを動かす手がとまった。



女性誌の表紙を飾るほどの人気モデル。それが、かつての仁海の仕事だ。

智成と出会ったのは、10年前。知人のアテンダーが開いた食事会で。

当時、彼は日本代表に選ばれるほどの実力派の人気選手。

仁海も当時23歳で、モデルとして絶好調だった時だ。

誰もが振り返る美女と、人気のサッカー選手は出会って間もなく惹かれあい、関係を深めるまでに時間はかからなかった。

数週間も経たず、智成が所有する港区内の高層マンションに出入りするようになった。

彼からのプレゼントは、ハイブランドが当然。

貴重な休みには、たとえ数日だけでも海外へとぶ。

当時はそれが普通の生活だったのだ。


彼がフランスのチームに移籍してからも、熱愛ぶりは変わらなかった。

呼び寄せる時はいつもファーストクラスの席を取ってくれて、空港では人目もはばからず、出迎えて抱きしめてくれた。

シャンゼリゼを闊歩し、値段を見ずとも気に入ったものを買ってくれる。

プラザ アテネ、オテル ドゥ クリヨン、リッツ…パリのあらゆるラグジュアリーホテルを制覇し、ミシュランに掲載されているレストランにも飽きるほど訪れていた。






「懐かしいな…」

質素なカレーのランチを終え、近くのショッピングモールへ向かうバスの中。

仁海は、エルメスのパスケースを見つめながら、その頃を思い出していた。

パスケースは、智成が誰かからのプレゼントでもらったもの。電車に乗らない彼には必要ないというので、軽い気持ちで譲り受けたのだ。

彼からもらったバッグや洋服は、結婚を機に他人に全て譲ったが、このパスケースだけは手放せなかった。

もらった経緯のなにげなさと、使い勝手の良さ。そしてエルメスを主張しないシンプルな存在感が気に入って、そのまま使っている。

年季は入っているが、それもいい味を出していた。

仁海はそのパスケースに入れたSuicaをタッチし、バスを降りる。



「モデルの仁海さんですよね。もし良ければ写真、いいですか」

簡単な買い物を終え、ショッピングモールのコーヒーショップで休んでいた仁海は、突然女性に話しかけられた。

かつて顔を知られる存在だったため、今でもこのようなことは多々ある。

少々おしゃれをしていたからよかったものの、あの頃と比べて輝きを失った自分を認識されるのは恥ずかしい。

「そうですけど……あ、すみませんが私、引退しているんです」

いつもは他人のふりをするのだが、その日だけは何故か認めてしまった。丁寧に断ったが、心苦しかった。

仁海は彼女からすぐに目をそらして、視線をスマホに逃がす。

開くと、先ほどのままの智成のInstagramが開く。そのままじっくりと、彼の他の投稿を眺めてみた。

外苑前の『傳』や、六本木の『鮨 佐がわ』、表参道の『レフェルヴェソンス』など、星付きの予約困難店や会員制のレストランが並んでいる。




いまだ独身を謳歌している彼と共に写っているのは、現役日本代表選手や、テレビでよく見る俳優やタレントばかり。

彼の腕に光るのは、当時からお気に入りのロレックスのデイトナ。隆々とした筋肉でGucciのTシャツがはち切れそうだ。

― もう、全てが別世界…。

お互い、嫌いで別れたわけではなかった。

『サッカーに専念したいから、結婚は今、考えられない』

交際して3年を経た時、何気なく結婚について聞いた時に、彼にそう告げられた。

モデルの仕事に行き詰まりを感じていた上、結婚願望が強かった仁海に、彼のその言葉は酷だった。

その後、半ば自棄になりながら、同窓会で再会した高校の同級生と交際し結婚。そして、今に至る。

気がつけば自然と指が動き、投稿に『いいね』を付けてしまっていた。

仁海のアカウントは、名前と誕生日を組み合わせたもの。もしその名を見たら、恐らく智成も気づくだろう。

― なに期待してるんだろう。

すぐに消そうとしたが、投稿には何万ものいいねがついているのを見て、どうせ埋もれてしまって気づかないだろうと放置することにした。

「あれ?」

するとほどなくして、Instagramが通知した。

智成のアカウントから、DMが届いたのだ。


許可して開くと、ただ一言、『元気?』とだけある。

― あいかわらず、だな。

彼は、自分の手が空くといつも『元気?』とメッセージをくれていた。その前日に会っていてもだ。彼なりの合言葉のようなものなのだろう。

仁海は苦笑いしながら、返信の文字を打つ。

しかしその時、あるものをなくしたことに気づいてしまった。

「あれ、パスケースが、ない」

彼からもらったエルメスのパスケースを、まだ使っている──そんなことを彼に告げるために写真を撮ろうとしたところ、見当たらないのだ。

恐らくバスを降りた後で、どこかに落としてしまったのだろう。

荷物の中を何度見ても同じこと。店を出て、訪れた場所を顧みてもどこにもない。

― どうしよう……。

DMに返信することも忘れ、仁海は呆然とした。




その時、背後から声がした。

「仁海!」

「お母さーん」

仁海が振り向くと、会社帰りの夫・隆と、息子・悠人と理人が手を振って向かってきたのだ。

「仁海、もう来てたんだ。まだ時間あるのに」

「あなたたちこそ」

「誕生日プレゼントを探してたんだよね、お父さん」

隆は、無邪気に言葉を放つ悠人の口を、あわててふさいだ。

「プレゼントを?」

今日は、仁海の誕生日。

これから、予約してあるモール内のイタリアンで食事をすることになっている。会社と学校帰りの3人と共に、ここで待ち合わせをしていたのだ。

「いやいや…。君がリクエストしていたバッグ、カラーがなくて今日用意できなかったんだ。何も渡さないのも味気ないからね。リクエストのものは後日、必ず用意するから」

「そんな、焦らなくてもいいのに」

国立大を出て、大手企業の研究所で主任研究員を務める夫。

郊外だが、一軒家を持ち、子煩悩で、誕生日には必ずお祝いとプレゼントをしてくれている。

「ねぇ、お母さん。きょろきょろしてたけど、どうしたの?」

「パスケース、なくしちゃったの」

「あのすごくボロボロだったやつ?」

「うん…」

肩を落としてつぶやくと理人が周りを見渡し、近くのファンシーショップの店頭に駆けていった。

「じゃあ、これはどう?僕たちが買ってあげるよ!」

彼が見せたのは、人気キャラクターがモチーフとなったビニール製のパスケースだ。悠人もそれに続く。

「1,500円なら、僕たちのお年玉の残りで買えるね!」

「別にいいのよ。ポケモンカード買うんでしょ?」

「ううん。それより、お母さんのプレゼントが大事!」

声をそろえるふたりに、仁海は隆と苦笑いで顔を見合わせた。




子どもたちが隆と共に会計に向かっている間、仁海は途中まで文字を打っていた智成への返信をそっと消した。

戻ってきた隆の腕に自分の手を絡ませ、空いた手で悠人の手を握る。

理人も隆と手をつないで、歩き出した。

そのあたたかさ。心がざわめいた自分が恥ずかしくなる。

「ありがとう。私、このパスケース、一生大切にするからね」

仁海はそう言うと、二人の息子と夫に向かって微笑んだ。

▶前回:「あの子といると、自分がみじめになる」出世頭の同級生に嫉妬。しかし、彼女の仕事ぶりは実は…

▶1話目はこちら:同期入社の男女が過ごした一度きりの熱い夜。いまだ友人同士ふたりが数年後に再び……

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【ご報告】の魔力に憑りつかれてしまった女はエスカレートの末に――