「実は私、別れた後…」3年ぶりに元カノに会って、驚きの報告をされて
29歳―。
それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。
仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。
白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。
◆これまでのあらすじ
圭太は、亡くなった父親の影響で蕎麦好きになり、趣味で蕎麦を打つように。店をオープンしたいと夢を抱き、クラウドファンディングをおこなう。実は、失敗する前提で始め、夢を諦めるつもりでいたが、意外にも成功してしまい…。
エリートサラリーマンの憂い【後編】
「圭太、お前、会社辞めるなら、相談くらいしろよ」
勝村が日本酒をあおりながら、圭太に向かって不満を漏らす。
「すみません…」
勝村は、圭太が入社した当時から面倒をみてもらっている職場の先輩で、今も頭が上がらない。
退職するにあたり、相談をしようと思ってはいたものの、どうも気が乗らず先延ばしになっていた。
というのも、勝村は寡黙で真面目なタイプであり、どこか圭太の父親と重なり、なんともいえない気持ちになるからだった。
退職の申し入れを会社から受諾され、引き継ぎ業務を進めているなかで、勝村のほうから「飲みに行こう」と誘われた。
「蕎麦屋をオープンするって…。飲食業界の厳しさはわかってるよな？」
「はい。まあ…」
― そんなのはわかってるよ…。面倒くさいなぁ…。
プロジェクトページを作成するにあたっておこなった市場調査からも厳しさは痛感しており、勝村の忠告に辟易する。
「店の場所は決まってるのか？」
「一応、麻布十番に。場所を探してたら、ちょうどいい居抜き物件が見つかったから」
「麻布十番か。またえらいとこに…」
麻布十番は老舗蕎麦屋が多く、激戦区として知られているだけに険しい船出になることが予想される。
「圭太、知ってるか？この店、来月いっぱいでなくなるんだと」
「ええ？」
新橋にあるこの割烹居酒屋は、入社当初から勝村に連れてきてもらっていた。
築地が近いことから新鮮な魚料理をメインに出していて、かつては多くの客で賑わっていたが、確かに今は客もまばらだ。
― いい店なのに。本当にどこも厳しいんだな。
馴染みの店がなくなるせいか、勝村の顔にも寂しさが滲んでいるように見える。
「副業として、経営だけに携わる方法もあったんじゃないか？」
圭太の決断が見切り発車だったのではないかと、勝村が諭すように尋ねる。
圭太の勤めている広告代理店では副業が認められており、本業の傍ら、オーナーとして起業する同僚もいた。故に、別の選択肢があったのではないかとほのめかす。
「そんな甘い考えで、うまくいくとは思えなくて…」
言われっぱなしの状態に我慢できなくなり、圭太は静かに異を唱える。
「飲食業界が厳しいとわかっているからこそ、仕事を辞めて本気で取り組もうと思ったんです」
勝村に力強く胸の内を伝えたが、圭太のなかに別の感情がよぎる。
― ちょっと大げさに言い過ぎたかも…。
実のところ、圭太もそこまで決意が固まっていたわけではない。
店を持つことを夢見ていたとはいえ、クラウドファンディングが成功し、やらざるを得ない状況に追い込まれたため一歩踏み出しただけ、というところもある。
「そうか…。そこまで覚悟が決まってるなら、応援する。頑張れよ」
勝村からのエールに、圭太にはどこか心苦しさをおぼえる。
◆
圭太は自宅に戻ると、パソコンの前に座る。
開店に向けてやらなければいけない雑務があった。
クラウドファンディングの支援者たちへの返礼品の準備だ。
支援金額に見合った無料チケットや、お礼のメッセージなどを、300名近い人たちに郵送しなければならない。
出店の手続きや、調理器具や備品の調達に追われ、思うように捗っていない。
「もっと楽なリターンにすれば良かったな…」
ひとり愚痴を漏らしながら作業を進める。
すると、支援者の一覧の中に、気になる名前を見つける。
『優莉』
見慣れない漢字のつづりであり、目に留まった。
それは、3年前に別れた彼女と同じ名前だったからでもある。
「まさか、あの優莉じゃないよなぁ」
名字も同じだが、記載されている住所には『岐阜県』とあった。
「東京のはずだし、やっぱ別人かぁ」
しかし、1度気になるとどうも作業に身が入らない。
スマートフォンを手に取って、優莉とのLINEのやりとりを遡り、思い切ってメッセージを送ってみた。
『久しぶり。もしかして、クラファン協力してくれた？』
数分後に返事が届いた。
『久しぶり！気づいた？お店を開くなんてすごいね。おめでとう！』
― やっぱり優莉だったんだ！
圭太はさらにLINEを続ける。
『うん、ありがとう。優莉、引っ越したの？住所が岐阜県になってるけど』
『そう。岐阜県にある窯元に就職したんだ』
― んん？窯元って…？
すぐにはピンとこず、『窯元』の意味を検索する。
「陶磁器を窯で焼いて作り出すところ」
圭太の脳裏に、交際していたころの記憶がよみがえる。
― そうだ！そういえば優莉は、「陶芸家になりたい」って言ってたな。
優莉は大手通信企業に勤めながら陶芸教室に通っていて、コンテストに出品するほど熱を入れて取り組んでいた。
「将来、陶芸を仕事にできたらいいな」
― 確か、そんなことも言ってたな。
当時の光景が浮かびあがってくる。
同時に、思い出したくもない記憶までもが呼び覚まされる。
優莉の語った夢に対して、圭太は心無い言葉を浴びせたのだ。
「そんなの食っていけるわけないだろう。陶芸家を目指している奴なんて、何人いると思ってるんだよ。考えが甘いよ」
恋人の夢を応援するどころか取り合うこともせず、突っぱねたのだ。
言い返すこともなく、ただ俯いていた優莉の姿を思い出し、胸が詰まる。
― むしろ、今の俺にピッタリの言葉じゃないかよ。
かつて恋人に投げかけた言葉が、そっくりそのまま跳ね返り、今の自分を否定する。
そして、それを言われた者の気持ちが、今は痛いほど理解できる。
― ごめんな、優莉…。
LINE画面を眺めながら、心のなかで深謝する。
『じゃあ優莉も、夢に向かって進んでるんだな』
『うん！お互いに頑張ろうね！』
やりとりを終えると、圭太はスマートフォンを置き、作業の続きに戻る。
パソコンの画面を眺め、支援者一覧ページに表示された名前を目でたどっていく。
― 俺は、彼女の夢すら応援できなかったのに…。
赤の他人の、まだ何者でもない自分を支援してくれる人たちへ、感謝の思いが湧きあがる。
煩わしさしか感じられなかった返礼品の発送業務に、ひとつひとつ誠意を込めていく。
圭太は、おろしたての作務衣を身にまとい、真新しい厨房に立って忙しなく準備を進める。
カウンター席には見知った顔が並び、厨房の様子を興味深そうに眺めている。
開店の準備が終了し、いよいよ明日からプレオープンとなる。
前日となる今日は、レセプションをおこない、開店にあたり協力してくれた人たちを招いて蕎麦を振る舞うことにした。
「どうぞ、食べてください。看板メニューの鴨せいろです」
手打ち蕎麦をのせた四角いせいろの隣に、鴨肉とネギの入ったつけ汁の器を並べた。
招待客たちは、待ってましたとばかりに箸をとり、手をつけ始める。
蕎麦をすする音が店内に響き、口々に感想を漏らす。
顔をほころばせながら食べている様子を、圭太はカウンター越しに眺め、満足感に浸る。
そこで、入り口の扉が開いた。
「遅くなってごめんなさい！」
入ってきたのは、優莉だった。
「どうぞ」
圭太はひとつ頷いて、カウンターの空いている席に座るよう促した。
すぐに蕎麦を用意して、カウンターテーブルに並べる。
― そういえば、優莉に食べてもらうのは初めてだな。
3年ぶりの再会ということも重なり、肩に力が入る。
優莉が、「美味しい」と言って微笑む姿を見て、ようやく一段落ついた気分になった。
「遠いところ、わざわざ来てくれてありがとな」
「ううん、誘ってくれてありがとう」
「陶芸のほうはどう？いつからそっちに？」
「就職して、もう2年ぐらいかな。まあ、ぼちぼちってとこ。あ、そうそう…」
優莉がバッグのなかから、布で包まれた何かを取り出す。
「今、こういうの作ってて」
布を取り去ると、小型の器があらわれた。
「蕎麦猪口？」
「そう。いつか、圭ちゃんのお店でも使ってもらえるようなものを作れたらいいなって」
すると、隣の席で話を聞いていた和樹が口を挟む。
「へぇ、すごい。もう、十分使えるんじゃないですか？」
「いえいえ、まだまだ修行中の身ですから…。こんな立派なお店で出すなら、もっと腕を磨かないと…」
優莉が申し訳なさそうに肩をすぼめると、今度はライターの真島が話に割り込む。
「それ、すごくいい話ですね。もしそれが叶ったら、小説にしてもいいですか？」
本気とも冗談ともつかない口調で言う。
「えっ！だったらその小説を映像化しましょうよ。一応、映像の制作会社に勤めているので」
和樹も話にのっかる。
さらに、広告代理店の先輩である勝村も身を乗り出す。
「映画化した際の宣伝は、うちに任せてもらおうかな」
「ええ〜。私も何か手伝いたい！フライヤーの写真撮らせてください！」
奥の席に座る、フォトグラファーの奈緒が手をあげる。
圭太は、カウンター越しに繰り広げられるそのやりとりを見て、感慨にふける。
集まっているのは、蕎麦の味を高く評価してくれた人たちであるが、それぞれに面識があったわけではない。
そんな人たちが、この場所で出会い、新たな交流が生まれようとしている。
圭太の作った蕎麦が生みだし、繋いだ縁とも言える。
― この場所は、俺だけのものじゃないんだ…。
圭太は深く実感する。
― これからますます多くの人がやって来て、縁が生まれて、それぞれのストーリーが始まっていくかもしれない…。
亡くなった父親との思い出の味が、多くの人の人生に影響を及ぼしているような不思議な感覚をおぼえる。
同時に、まだぼんやりとではあるものの、蕎麦作りへの使命を見出したような気分にもなる。
和やかな雰囲気のなかで、圭太は店を守り抜く覚悟を定めた。
◆
29歳―。
もがきながらも、それぞれがようやく見出した進むべき道。
迷い、悩んだからこそ、正しい判断をしたのだと覚悟が定まる。
あとは、信じた道をひた走るだけ。
ただ、人生は戸惑いの連続であり、再び行き詰まり、立ち止まってしまうこともある。
そんな時は、あの、白とも黒ともつかないグレーのなかで葛藤した自分が、背中を押してくれるだろう。
Fin.
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