JR中央線「都心の絶景区間」に挟まる“残念な車窓”のナゼ 水辺から離れる水道橋〜飯田橋
JR中央線は御茶ノ水から四ツ谷にかけ、神田川の谷やお濠沿いを走り風光明媚な車窓が展開されますが、途中の水道橋〜飯田橋間だけ、単調な景色が挟まります。この“1区間だけちょっと残念な車窓が入ってしまった理由”を探ります。
現代に生きる江戸時代の土木工事
新宿からJR中央線の電車で東京方面へ向かう時、四ツ谷を出ると電車は満々と水を湛えたお濠沿いを走ります。対岸には桜の木も植えられ、都内でも屈指の美しい車窓風景を味わえる区間です。その光景は市ケ谷を経て飯田橋まで約2km続きます。
また、飯田橋のひとつ先の水道橋を過ぎると次の御茶ノ水まで、今度は一転して切り立った崖下に沿って、都心とは思えないような神田川の谷の中を進みます。2022年現在、御茶ノ水は駅部分が工事中で、川の真上に工事の足場が組まれていますが、対岸の斜面は樹木が茂り心和ませてくれます。たまに船が通るのを見かけた時など、渓谷美が人気の観光地にいるような気さえしてきます。
風光明媚な外濠沿いを行く、JR中央線の市ケ谷〜飯田橋間(2020年2月、内田宗治撮影)。
ところが、この2区間のうち飯田橋〜水道橋間の車窓だけが、線路沿いにビルが連なる都心のどこにでもあるような単調なものとなっています。つまり四ツ谷から御茶ノ水への車窓は絶景→単調→絶景と目まぐるしく変転するわけですが、なぜこのような光景が生まれたのでしょうか。
その理由は、絶景区間については江戸城と江戸の町を造り上げた徳川家康のおかげだといえるでしょう。もう少し丁寧にいえば、初代の家康から第3代将軍家光の時代にかけて行われた、江戸城下の防備や水害対策のための地形改造によります。
そして飯田橋付近の単調区間については、実は江戸時代、この付近が舟運の要衝だったことによります。
外濠へ合流する神田川
これらの区間を歴史的に見ていきましょう。まずは四ツ谷〜飯田橋間。ここで線路に沿うお濠は、徳川家光の時代(寛永年間)に開削整備された江戸城外濠です。四ツ谷駅は外濠(真田濠と市谷濠)の水を抜き整地した場所に造られていて、ホームはかつての外濠の中にすっぽりと入る立地となっています。ホームが周囲の土地より低い位置にあるのはそのためです。四ツ谷駅のすぐ新宿寄りに御所トンネルがありますが、新宿方面から来た中央線は、トンネルを抜けたら外濠の中に入り込んでしまう形です。
明治40年代の中央線。『明治四十年代前期 東京の河岸図』東京逓信局編纂地図(東京都港湾振興協会により復刻の地図に筆者が加筆)。
お濠の底にある中央線とは逆に、台地の浅い地下を走っていた東京メトロ丸ノ内線は、四ツ谷駅に至ったところでお濠の側壁部分から地上へ顔を出します。そして中央線を跨ぐという、何とも珍妙な光景が見られます。
四ツ谷を出ると外濠は市ケ谷の手前で、かつてのように水を湛える光景になります。飯田橋駅前では、左手(北側)から神田川が外濠へと合流してきます。中央線は2つ先の御茶ノ水駅付近まで、この神田川に沿って進むこととなります。
江戸の町では舟運が盛んで、それは都心部で中央線(当時は甲武鉄道)が建設された明治時代になっても続いていました。甲武鉄道は1894(明治27)年に新宿〜牛込(現・飯田橋付近)間が開業し、1904(明治37)年には御茶ノ水まで延伸します。当時、飯田橋駅付近から隣の水道橋駅付近までの神田川には、船荷の積み下ろしをする河岸が連なっていました。中央線がこの区間で神田川からやや離れたルートをとったのは、川沿いにびっしりと河岸があり、そこを避けて線路を敷設したためです。
特に飯田橋付近は前述のように舟運の要衝でした。要衝となった第1の理由は、これも江戸時代の地形改造と関係があります。
舟運の要衝へ 理由は2つ
飯田橋〜水道橋間で中央線は日本橋川という小さな川を渡ります。実はこの日本橋川が、一部川筋の付け替えはあるもののかつての神田川で、ここから東側、御茶ノ水を経て隅田川に注ぐ現在の神田川は、江戸時代第2代将軍秀忠の時に開削されたものです。その目的は、江戸城下を洪水から守るためでした。
飯田橋〜水道橋間。神田川と線路の間に連なるビルの部分が昭和戦前頃まで河岸があった場所(2022年3月、内田宗治撮影)。
御茶ノ水駅ホームの眼下には神田川が流れていますが、江戸時代初期はここに川も谷もなく、台地が続く土地でした。ここで丸ノ内線が地上に顔を出すのも、掘り込まれた低い場所だからです。
御茶ノ水付近の神田川開削により、物資の集散などで賑わっていた隅田川の両国付近と飯田橋付近が直結することになりました。
飯田橋付近から市ケ谷、四ツ谷方面へ続くのは外濠なので、途中何か所か土手で区切られ、船が航行できません。また御茶ノ水方面は急な崖もある谷なので河岸には不向きです。河岸がないので、これらの区間では川や濠沿いに線路を敷くことができました。
また、江戸時代には埋め立てられていた神田川と日本橋川の分岐地点付近は、特に明治時代中期に開削され、日本橋川と神田川(下流部)、隅田川がつながり、飯田橋付近はいわば三角形の舟運水路の頂点といった位置付けにもなりました。
飯田橋が舟運の要衝となった第2の理由は、この付近までは満潮時、江戸湾の海水がさかのぼるので、豊かな水量が確保され、船が難なく航行できたためです。
都心部の中央線は、途中に存在する河岸をよけながらも、江戸時代に造られた外濠と神田川沿いにS字カーブを描いて進むことにより、町中の人家密集地をうまく避けてルートが設定されました。その分、用地買収には手こずらなかったのではないでしょうか。その経緯は、変化に富む車窓からうかがえるのです。
※一部追記しました(11月1日14時50分)。