世界初スタイルで打倒アメリカ! エアバス初の旅客機「A300」は成功作? 誕生の裏に “団結”
ヨーロッパの航空機メーカー、エアバス社が初めて手掛けた旅客機「A300」は、世界で初めて「双発のワイドボディ機」として生まれました。その後のエアバス社の成功にどうつながったのでしょうか。
1972年10月28日初飛行
ヨーロッパの航空機メーカー、エアバス社が初めて手掛けた旅客機「A300」は、1972年10月28日に、同社の本拠地であるフランス・トゥールーズ空港で初飛行に成功。現在同社は、世界のジェット旅客機市場で、アメリカのボーイング社とシェアを二分するまでに成長しましたが、A300はその“第一歩”を踏み出したモデルとなりました。
エアバスA300(画像:エアバス社公式Facebookより)。
A300はいまでこそスタンダードなルックスといえるものの、開発当時の旅客機の形状から考えると、異質な面をもっていました。
この機はエンジンを2発搭載した双発機ですが、当時の双発機は客室通路が1本しかない「単通路機(ナローボディ機)」がスタンダード。この市場に、世界で初めて通路が2本設置された双発の「複通路機(ワイドボディ機)」として参入したのです。
また、胴体直径は6m近くあります。この大きさは、たとえば同時期にあった単通路機、ボーイング737の直径 (3.76m)よりふた回り大きく、現代のボーイング787(5.74m)にも匹敵する太さです。客席は、エコノミー・クラスの場合、横2-4-2列がスタンダードでした。
この特徴的だった胴体の太さは、当時ボーイング747で使用されていたLD-4貨物コンテナを床下に搭載できるように計算されていたという側面もあります。これにより、空港での機体への貨物搭載が、一つずつ貨物を積み込む「バラ積み」よりも、確実かつ短時間の積み下ろしを可能にしました。なお、同機は太さだけではなく、長さも当時の双発機としては非常に大きい部類に入り、全長約55m、全幅約45mというサイズでした。
1960年代は、こうした新たなスタイルを持つジェット旅客機が相次いでデビューしていました。ボーイング社では巨人機747、ダグラス社では三発エンジンのDC-10、ロッキード社では同じく三発エンジンのL-1011トライスターが出現。これらはいずれも、過去に製造された機体よりもより多くの旅客を運ぶことができるモデルです。
ただ、この世代で次々と新型機を生み出していたのはアメリカ勢でした。世界初のジェット旅客機だったイギリス製の「コメット」など、かつて業界に革新をもたらす旅客機を生み出したヨーロッパの航空機メーカーたちは、ここに遅れを取っていたのです。
A300が生まれるまで
しかしこの当時、ヨーロッパの航空先進国であるイギリス、ドイツ、フランス、オランダなどでは、国力の関係から、費用面などで単独の国による大型ジェット旅客機の開発に着手できるような状態ではなく、アメリカ機の部品を製造する立ち位置に留まっていました。
そこで、イギリスのホーカー・シドレー社、フランスのブレゲー社、ノール社は、個別に計画していた双発ジェット旅客機の計画を統合し、約300人乗りワイド・ボディの「HBN-100」旅客機を開発することにしました。これがのちのA300です。ちなみに、「A“300”」の型式は、当初この機が「300人乗れる飛行機」を目指していたことを意味します。
本来であればエンジンもヨーロッパ製としたかったのでしょう。イギリスのロールス・ロイス製エンジンの搭載を予定していたものの、結果として、既に開発の進んでいたアメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)社のCF-6を搭載エンジンとして選択。サイズも、当初の300席仕様よりも一回り小型のものとなるなどして、仕様が固まっていきました。
こうして完成したA300の初飛行は 、当初の予定より1 か月早く実施されました。飛行時間は1時間23分だったとのことです。その後実用化プロセスも比較的円滑に進み、1974年に就航を果たします。
初飛行後のA300、繰り広げられた斬新な売り込み
ただ初飛行後のA300は、ヨーロッパ域内以外では全く売れず、セールスに苦労します。そのことから、日本を含む東アジアへ積極的な売り込みをかけることになりました。
これを表す象徴的なエピソードのひとつが、かつてあった日本の航空会社TDA(東亜国内航空。のちにJASとなり、その後JALと合併)への導入の経緯です。
TDAは国内の航空会社では初めてのエアバス機としてA300を採用。このとき、TDAへは、かなり有利な条件で売り込みがかけられたとも。また、TDAからの“お願い”をうけ、本来はA300のエアバス仕様機がまとっていた「レインボーカラー」塗装を、TDAの塗装としての使用を許可したことも挙げられるでしょう。
TDAのエアバスA300(画像:TDA)。
こうした世界を股にかけた粉骨砕身のセールスを繰り広げた結果、A300は500機以上を売り上げ、東アジア、そしてアメリカでも使用されました。また、短胴型の派生型A310、グラス・コクピット化したA300-600系列を含めて800機も量産されました。これはライバルとされたDC-10の約500機、L-1011の250機と比較しても好調な数字です。
A300で実績を積むことにより、エアバス社のその後の機体への橋渡しとして、空港における取り扱い、安全性、経済性、整備性などを実証。世界二大旅客機メーカーとなる礎を築いたのです。