戦艦「武蔵」の乗組員が経験した“二度目の沈没” 沈められた徴用船「さんとす丸」 生存者のその後
日米開戦に向けて徴用された多くの民間商船。その中の1隻「さんとす丸」は、レイテ沖海戦で沈んだ戦艦「武蔵」の生存者を本土に輸送するはずでした。でも結局、同船も沈みます。二度も海に投げ出された「武蔵」乗員の道程を振り返ります。
移民を運んだ南米航路の貨客船
太平洋戦争開戦に伴い徴用された多くの民間船は、仮装巡洋艦や軍用病院船などとして徴用され、旧日本海軍の一翼を担いました。その中には戦前、遠く南米まで移民を運んでいた長距離航路用の貨客船も含まれていました。代表的な船に、「ぶらじる丸」「あるぜんちな丸」「ぶゑのすあいれす丸」があります。
実は、これらのうちの1隻、「さんとす丸」は、史上最大の戦艦と謳われた旧日本海軍の大和型戦艦2番艦「武蔵」と大きく関わっていました。
旧日本海軍の戦艦「武蔵」(画像:アメリカ海軍)。
「さんとす丸」は1925(大正14)年に竣工した大阪商船の貨客船で、同型船に「らぷらた丸」「もんてびでお丸」がありました。なお、船名の「さんとす」とは、ブラジルのサンパウロにある貿易港サントスに由来します。
本船は1939(昭和14)年まで南米航路で用いられたのち、翌1940(昭和15)年からは満洲移民を乗せて神戸と中国大陸の大連を行き来するようになりました。
そして、日米開戦前の1941(昭和16)年1月、旧日本海軍に徴用され特設潜水母艦へと転用、横須賀に配備されます。船籍上は「満珠丸」へ改名されていますが、現場では引き続き「さんとす丸」と呼ばれていたとのこと。しかし、開戦後は外地へ出向くことはほとんどないまま、1943(昭和18)年3月には特設運送船に変更されました。運送船になってからの「さんとす丸」は、サイパンやトラック島など最前線への危険な兵員輸送任務に就いています。
「武蔵」と「さんとす丸」
太平洋戦争後半の1944(昭和19)年10月、「さんとす丸」はフィリピン行きの輸送船団の1隻として台湾の高雄を出港、11月21日にマニラへ入港します。
フィリピンでは約1か月前にアメリカ軍が南部のレイテ島に上陸しており、日米が死闘を繰り広げていました。これに対処すべく連合艦隊は捷一号作戦を発動し、10月23日から26日にかけてレイテ沖海戦が起こりました。
10月24日のシブヤン海海戦では戦艦「武蔵」が沈没、乗員2399名中1023名が戦死しました。駆逐艦「清霜」と「濱風」に救助された生存者1376名は、マニラの海軍病院に移送した負傷者を除きコレヒドール島に一時収容されます。
南米航路で多くのブラジル移民を輸送した初代「さんとす丸」(画像:パブリックドメイン)。
「武蔵」の生存者については、沈没の事実が広まらないよう口封じのため、フィリピンで地上戦闘に投入されたという話があります。しかしこれは意図的な偽情報のようです。そのままルソン島に留め置かれたのは半数の697名で、それ以外は新たな任務のため日本本土へ帰国命令が出されました。
「武蔵」の残留組は、機銃員や機械整備を行う工作科として乗り組んでいた将兵たちでした。彼らは、アメリカ軍がルソン島に上陸したときには戦闘員として戦うために残されたのです。ただ、彼らはアメリカ軍に突撃させられたわけではなく、遊撃戦(ゲリラ戦)を行いました。そして、戦闘よりも食料の欠乏による餓死で多くが亡くなり、その生存者は終戦時56名だったと記録されています。
一方、内地帰還組は航海科、機関科、主計科、医務科など、軍艦を運用する将兵たちでした。彼らはアメリカの艦載機による空襲が続くマニラから、いくつかの船便に分かれて発っています。
その中で最も多くの生存者を乗せたのが「さんとす丸」でした。
「さんとす丸」沈没! そして…
「さんとす丸」には内地に移送される陸軍部隊も乗船していましたが、戦艦「武蔵」の生存者が最も多く、420名にのぼっていました。
11月23日、哨戒艇2隻と駆潜艇1隻に護衛された「さんとす丸」はマニラ港を出航します。11月25日午前1時過ぎにルソン島北部沖でアメリカの潜水艦「アトゥル」の魚雷で、まず駆潜艇1隻が沈められます。続いて「さんとす丸」に魚雷2本が命中、同船は間もなく沈没しました。
残った哨戒艇と駆潜艇が波間に漂う将兵を救助しますが、収容しきれなかった生存者は、その日の夕方までに高雄から救援に来た艦艇に任されました。
「さんとす丸」の沈没で約3000名の陸海軍将兵が亡くなりましたが、「武蔵」の乗組員は約120名が生き延びています。二度の沈没を経験した「武蔵」の生存者は、台湾の高雄警備府で終戦を迎えた者たちのほかに、別便で内地に帰還した者もありました。
1944年4月に就役し、「さんとす丸」を撃沈したバラオ級潜水艦「アトゥル」(画像:アメリカ国立公文書館)。
なお、「さんとす丸」以外の船で日本本土へ帰り着いた「武蔵」の生存者も一部おり、彼らは横須賀の久里浜にある軍の療養所に収容されたのち、1945(昭和20)年に入ると国内各地に異動していきました。
まもなく、日本の敗戦で太平洋戦争は終結。戦後、海運業界の再建が始まります。そういったなか、大阪商船は南米航路の貨物船を再開しました。そして1950(昭和25)年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本がアメリカの占領状態から脱して主権を取り戻すと、大阪商船は南米移民の輸送を復活させます。そのために建造した戦後最初の貨客船が二代目「さんとす丸」でした。
1952(昭和27)年12月に竣工した二代目「さんとす丸」はその後、1972(昭和47)年、パナマの船会社に売却されたのち、台湾の船会社に転売され、1976(昭和51)年に廃船になりました。
太平洋戦争では、多くの民間徴用船と乗組員が犠牲になりました。「さんとす丸」の沈没はその一例にすぎません。しかし、その最期はせっかくレイテ沖海戦を生き延びた「武蔵」の乗組員と運命を共にするという、戦争末期ならではの過酷な現実が待っていたのです。