アップル創業者のスティーブ・ジョブズは、がんのため2011年に56歳で亡くなった。東京大学非常勤講師の左巻健男さんは「ジョブズは2003年10月にはすい臓がんだとわかっていたが、早期手術を拒否し、ゲルソン療法と呼ばれる食事療法に頼った。9カ月後の検査でがんの転移がわかり、手術などに切り替えたが手遅れになってしまった」という――。

※本稿は、左巻健男『陰謀論とニセ科学』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。

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スティーブ・ジョブズ氏の死は避けられたのだろうか - 写真=dpa/時事通信フォト

■早期に手術すれば生存確率が上がっていた

2003年10月、ジョブズは腎臓結石のときに治療を受けた医師とたまたま顔を合わせ、腎臓と尿管のCTスキャンをするようにすすめられました。5年ぶりのスキャニングで、その結果、腎臓に問題はありませんでした。

ただ、すい臓に影があるので、すい臓検査の予約を求められたが、これを無視します。

とはいえ医師はしつこく、数日後にまた検査するようにと連絡してきました。その声があまりにも真剣だったため従うことにしたのです。

この検査ですい臓がんが発見され、細胞をとって調べる生検もおこなわれました。

ほとんどのすい臓がんは、治療できない腺がんと呼ばれるタイプなのに、ジョブズの場合は、すい臓神経内分泌腫瘍と呼ばれるめずらしいタイプで進行が遅く、たまたま早期に発見されたので、転移する前に手術すれば生存確率が上がるものでした。

このがんは、手術で除去するしか医学的に認められた対策がないというのに、ジョブズは手術を拒否してしまったのです。

そこには若い頃からの東洋思想などの影響で、体を切り刻まれたくないという気持ちと、西洋医学への拒否感があったのかもしれません。

「権威を信じない」「自分一人を信じる」という彼の信念がそうさせたのでしょう。

※アップル共同創業者の一人であるスティーブ・ジョブズのがん発見からがん治療までの経過は、ウォルター・アイザックソン著・井口耕二訳『スティーブ・ジョブズII』(講談社、2011)によっています。なお、以上の要約の文責は筆者です。

■「絶対菜食主義」でも肝臓に転移

ジョブズは、新鮮なニンジンと果物のジュースを大量にとる絶対菜食主義を貫きました。

それに鍼(はり)やハーブ薬なども併用して実践し、ほかにもインターネットで見つけた療法や心霊治療の専門家など他人からすすめられた療法も試しました。

これらの療法の実践は、すい臓がんと診断されてから9カ月間続きました。

2004年7月の金曜日、新しく撮ったCTスキャンの画像には大きくなったがんが写っていました。

広がった可能性もあり、ついにジョブズは、現実と向き合うしかなくなりました。

そして手術の結果、肝臓に3カ所の転移が見つかったのです。

がんが発見された直後、つまり9カ月早く手術していたら広がる前だったかもしれません。

もちろん、誰にも確実なことはいえませんが、多くの人は、この遅れが致命的な結果につながったとみています。

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すい臓がんの発見時に手術していれば助かったかもしれない(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/magicmine

■ジョブズの後悔

ジョブズは取材したアイザックソンにこう告げました。

「体を開けていじられるのが嫌で、ほかに方法がないかやってみたんだ」

そのように当時を回想するジョブズの声には悔やむような響きが感じられたと、アイザックソンは述べています。

2008年になるころ、がんが広がりつつあることが明らかになりました。

それが一般にも知れわたるようになり、その懸念からアップルの株価が下がりはじめました。

肝臓移植手術もしましたが、内臓を囲んでいる腹膜に斑点が認められました。がんの進行は思ったよりも速かったのです。

2010年11月に体調が下り坂となり、痛みがひどくて食事ができなくなりました。

翌年1月には3度目の病気療養休暇をとることになり、7月には骨など体のアチコチにがんが転移し、もはや分子標的治療でも適切な薬を見つけられなくなったのです。

■ジョブズがすがった「コーヒー浣腸」

ポール・オフィット著・ナカイサヤカ訳『代替医療の光と闇 魔法を信じるかい?』(地人書館、2015)の「第8章 ガン治療」では副題に「スティーブ・ジョブズ、サメ軟骨、コーヒー浣腸 などなど」となっており、ジョブズのがん治療からの経緯を書いています。

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毎日コーヒー浣腸ではジョブズは助からなかった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/beemore

そこには「……しかし、彼の選択は致命的だった。手術を受けたときにはがんは広がっていた。2011年10月5日、入退院を繰り返した末、スティーブ・ジョブズは治療可能な病で死亡した……」と記されています。

スティーブ・ジョブズが実践したゲルソン療法は、米国で1930年代にマックス・ゲルソンが、がんをはじめとする病気が食事療法で治るという「奇跡」の方策を提唱したことから始まりました。

数ガロン(米国では1ガロンは約3.8リットル)の果物、野菜、子牛の生の肝臓を混ぜた自然食(液体)を摂り、毎日コーヒー浣腸をして有害な体毒をデトックスする療法です。

現在、マックス・ゲルソンの娘シャルロッテ・ゲルソンが米国の規制を避けるためにメキシコでゲルソン療法による治療をしています(編集部注:2019年に死去)。

つまり、米国内では大っぴらにこの療法は実行できないのです。

■「食事療法」悪影響も

怪しい代替医療の多くが、米国の規制が及ばないところで治療されていることは注意すべきことです。

わが国でもゲルソン療法を取り入れた治療法がおこなわれています。

精神科医の星野仁彦氏は1990年3月、S字結腸のがんになって手術をしました。ところが肝臓に転移してしまいます。

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体力を消耗している時に実行すべきではなかった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/gorodenkoff

星野氏は、転移した肝臓のがんに直接注入して壊死させるエタノール局注療法で対処し、さらにゲルソン療法の7割程度をカバーする「星野式ゲルソン療法」を実践しました。

具体的には、大量の野菜・果物ジュースや生野菜を摂取し、無塩食、油脂類と動物性タンパク質の制限、イモ類、未精白の穀類(玄米)、豆類、新鮮な果実、堅果類(クルミ)、海藻などを積極的に摂り、逆にアルコール、たばこ、カフェイン、小麦、砂糖、食品添加物、精白された白米などは禁止、というものです。

左巻健男『陰謀論とニセ科学』(ワニブックス)

星野氏は、星野式ゲルソン療法で治せたとしていますが、再発肝臓がんへのエタノール局注療法が功を奏したと考えられます。

ゲルソン療法については1990年代半ば、効果があるとした少数の医学論文がありました。しかしその執筆者らは、その解析についての批判を受け入れざるをえませんでした。つまり根拠を示すことができていなかったのです。

星野式ゲルソン療法は学会発表や医学論文にはありません。

ただでさえ、がん治療中はかなりの体力を消耗し、体重の減少もあるため、このような食事療法が闘病生活に耐えられるのか、疑問です。逆に大きな悪影響を及ぼす可能性も示唆されています。

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左巻 健男(さまき・たけお)
東京大学非常勤講師
東京大学教育学部附属中・高等学校、京都工芸繊維大学、同志社女子大学、法政大学生命科学部環境応用化学科教授、同教職課程センター教授などを経て現職。東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻物理化学講座を修了。『RikaTan(理科の探検)』誌編集長、中学校理科教科書(新しい科学)編集委員。法政大学を定年後、精力的に執筆活動や講演会の講師を務める。『面白くて眠れなくなる物理』『面白くて眠れなくなる化学』『面白くて眠れなくなる地学』『怖くて眠れなくなる化学』(PHP研究所)、『身近にあふれる「科学」が3時間でわかる本』『身近にあふれる「微生物」が3時間でわかる本』(明日香出版社)、『絶対に面白い化学入門 世界史は化学でできている』(ダイヤモンド社)など著書多数。
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(東京大学非常勤講師 左巻 健男)