純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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正確に統計を取ったわけでもないのだが、近ごろ、バージョンアップはもう当てない、いくら何度も自動で催促されようと絶対しない、という話をよく聞く。かく言う私もそうだ。いまきちんと仕事になっているのに、まずまず使わなそうな「新機能」とやらのためにOSのバージョンアップをするのは、肝心のメインソフトの方が使えなくなるかもしれず、あまりにリスクが大きすぎる。

たしかに昔は、まともに動いていること自体が奇跡的で、バグなのか、オーバーワークなのか、突然にブラックアウトする、などということがしょっちゅうだった。そういうトラブルが解消されているのではないか、と期待して、こぞって我先にバージョンアップした。もっとも、たいてい、やっぱりダメで、それでさらに次のバージョンを心待ちにした。

いまも、ふっとぶことが無いではない。だが、昔に較べれば、はるかに安定している。むしろバージョンアップの方が、トラブルの元。あれこれのソフトを連携し使っているせいで、どれか一つでも対応外となると、それこそまったく仕事にならなくなる。それでも、ウィルスが、ハッキングが、脆弱性が、とか言われると、バージョンアップを当てないと、スキを放置したやつが悪いと言われそう。

だが、じつは、ここのところ、それ以上の問題が生じている。たとえば、一太郎。多少の改善が進んでいることを期待して、なんとなく二年ごとくらいにはバージョンアップを当ててきたが、今回はやばい。カナ漢字変換のATOKがかってにサブスクになって、前のATOKが自動で消されてしまい、毎年、サブスク更新料を払わないといけなくなる。これは、実質的には一太郎のバージョンアップを毎年、強制されるのと同じ。

それも、良くなっているのならいいのだが、もの書きには使いにくくなる一方。スマホ向けなのか、ATOKが通俗化して、話し言葉、さらには方言や略語などが得意になったせいで、書き言葉、文語、単漢字が後に追いやられ、必要な漢字がすぐに出てこない。それどころか、差別語っぽいものは、辞書そのものから消されてしまっていて、ふつうの変換では出せない。一太郎も、やたら装飾だらけになっていくが、段組やレイアウト枠のリンクなどだらけだと、あいかわらず入力ごとに「応答無し」で待たされ、仕事にならない。

それじゃあ、AdobeのIndesignか、というと、これも問題がある。こちらは、とっくの昔にサブスクになって、スーツとして同社の製品が連携してどれでも使えますよ、ということに。しかし、じゃあ、それで、というわけにはいかない事情がある。Indesignは、日本語のややこしい組版規則に対応するために、事実上、日本に特化した製品。たしかに、当時、QuarkXPressよりよくできていて、みんなこっちに乗り換えたのだが、その後の開発ポリシーがグラグラ。同じソフトなのにバージョンアップでの上位互換性が無いから、最新版だと、昔のデータの字組が崩れたり、文字欠けしたり。

いちばん致命的なのは、フォントメーカーに媚びて、外字を完全排除してしまったこと。その方がたしかにトラブルは減るはずなのだが、漢字だらけの日本のフォント事情は完全ではなく、漢文や仏教、江戸の木版刷りなどが絡んだ歴史的な物事に関わると、漢字がフォントに無く、作字が不可欠なのだ。これに関して、IndesignはCS5までは、出来が悪いながらも、Illustratorで作字して、これをIndesignに読み込むSING Gryphlet Managerという媒介ソフトが付属されていたのだが、これがその後、完全に廃止。このため、2010年以前のデータが危なくて使えなくなってしまった。

そこで、奇妙なことに、いまでも多くの出版社、印刷所、デザイナーの手元では、2008年のCS4の方が業界標準としてマシンの中に残され、実際、けっこう使われている。これが無いと、外字を含むデータが来たときに読み出せず、いざというときに作字できないからだ。(もっとも、器用なデザイナーだと、TTエディタやOFエディタで、必要な外字しか入っていない自前のフォントを新規に作り直してしまい、外字の部分を自作フォントに「字体」を変えたことにして対応する、という手もあるようだが、全部の作字をやり直すなど、まったくのムダ手間でしかない。)

マイクロソフトのOfficeもそうだろう。基本的には2007年版あたりでほぼ完成していて、あいかわらずそのころの古いバージョンがそこら中に残っている。マクロなどを考えると、互換性として、気づかずに新しい関数を使ったりする方がトラブルの元。自分も古いバージョンで動かして、それで動くものの方が、人に渡しても安全。

ゲームに至っては、もっとひどい。もちろん、最近のはたしかにすごいのだが、おじさんおばさんはもちろん、子供たちも、ややこしくてついていけない。人間の余暇の「遊び」の範囲と程度を越えてしまった。それで、あえて家族では昔のゲームを楽しんでいる、なんていう話をよく聞く。そのために、完動する昔のマシンが意外な高値になっていたり。

NECの98が無くなったとき、多くのソフトも死んだ。まあ、その後のWindowsの勢いがすごかったから気にならなかったが、そのうち、マシンメーカーとソフトメーカーが結託して、OSの過去互換性を無くして、古いソフトを一掃してしまうのだろうか。そうなると、いよいよ新しいマシンも買いたくなくなるのかも。こんなことをやっていて、我々は、その後、「進歩」してきているのだろうか。