純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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源信(942〜1017)は、比叡山に学び、15歳で天皇に講じるほどになるが、「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき」と母に諫められ、山中横川に隠棲して念仏に専心し、『往生要集』(985)を編纂。これは、種々の仏教書から極楽往生のための念仏の意義効用についての文章を諸経から抜き書きしてきまとめたもので、基本は台密の観想念仏の三昧修養であり、空也のような庶民向けの称名念仏の易行ではない。

しかし、ここで注目すべきは、彼の世界観である。本来の仏教であれば、現世は無我であり、我執の煩悩が絶対的に叶いえぬ苦を生み出している虚仮にすぎない。だから、仏道に徹して煩悩を吹き消せば、現世にあってもそこがそのまま浄土となる。ところが、源信は、善人の死後の浄土行きを保証すべく、むしろ因果応報を主軸とし、このために、浄土の対概念、現世の罪業を死後、永遠に償わせる場として、インドや中国の通俗的な地獄を設定し、これをつまびらかに描き出す。

しかし、厭うべきは地獄のみではない。彼に拠れば、地獄はもちろん人の世もまた、不浄・苦・無常に汚されている「穢土」であるとされる。ここでまず、彼は『宝積経』などを引き、当時からすれば驚くほど正確な人体解剖と寄生虫(病痾)の解説をもって、人を化粧した糞便瓶と言う。ついで、苦については、仏教としての我執による一切皆苦などという思弁的な法印ではなく、四百四病の内の苦しみ、災厄刑罰の外の苦しみを具体的に説く。そして、無常については、『摩訶摩耶経』などから、日々を、屠殺場に近づく牛の歩みに喩え、若さは失われ、気力は損なわれ、栄えは衰え、会うは別れ、現世にあるかぎり、強きも賢きも死を免れえない、とする。だから、この脆い身に、財を集め、快を貪るのではなく、むしろこの世を厭い、死と浄土にこそ備えるべきだ、と彼は説く。

それにしても、なぜここまで源信は悲観的なのだろうか。平将門、藤原純友の乱(939〜41)の後の十世紀後半は、朝廷はあいかわらず無策ながら先述のような民間主導で貴族や寺社の荘園が発達し、藤原家内の権力闘争はあったものの、大枠では摂関政治が確立して、戦乱の無い時代だった。しかし、気候は著しく不順で、干魃と洪水、暴風が繰り返し襲いかかり、延暦寺や内裏で火災が発生、976年には京都大地震があり、また、疱瘡をはじめとする疫病が流行。これはあい争う藤原家の人々も避けがたく、幾人かは命を落とし、このことがよけいに藤原家内の権力闘争を複雑にした。源信が『往生要集』を作ったきっかけも、師の天台座主、良源の病死だった。つまり、源信の無常観は、僧侶でありながら、およそ仏教の思弁的なものではなく、むしろ現実の惨状に即したものだった。

藤原道長(966〜1028)もまた、かろうじて疫病の死線を越えて氏長者(貴族の頭領)となり、1004年に源信に帰依している。一般に、三女を後一条の皇后(中宮)に据え、太皇太后・皇太后・皇后の三つをともに自分の娘たちで占めた1018年十月十六日の夜の一族の宴席での「この世(夜)をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」の歌(藤原実資『小右記』)をもって、その傲慢な専横が難じられるが、しかし、それは中秋の九月ではなく晩秋の十月、それも満月を過ぎた十六夜(いざよい)。もはや欠け始めた秋風の中の夜半の月をみなと眺めつつ、すでにありもしない望月をあえて詠って、「欠けたることもなし」ではなく、欠けたることもなしなどと思ってしまっている(已然形=完了)から、我が世だなどと思い誤る、と戒める。この倒置による意義反転の技巧にこそ、源信に心酔した道長らしい、陰影と夢幻に満ちた趣きがあった。

この道長の時代に、紫式部が『源氏物語』を著す。後に本居宣長がこれを「もののあはれ」を評し、一般に、しみじみとした情緒などと解されるが、宣長が言うのは、源氏の君と藤壺の不義の恋のように、儒仏の理非を越えた人のありようであり、現代風に硬く言えば、理性で判別する以前の実存、ということだろう。967年に律令の施行細則「延喜式」が施行されたものの、人事も政策も恣意的に左右される荘園制摂関政治にあって、律令官僚制そのものが瓦解してしまっており、こんな建前を厳守せんとする者の方が嘲笑の対象にすらなっていた。その一方、心のままに不義や罪業にも甘んじる新しい生き方は魅力的な驚きであり、それがやがて勝負と外連に命を賭ける武士の登場を導く。

はたして道長の懸念、新時代の気風は、子の頼通(992〜1074)の時代に早くも現実となる。関東がふたたび平忠常の乱(1028)で荒れ、これを収めた清和源氏が武士として台頭。養女を取ってまで入内させるも男子は生まれず、百年来の外戚としての摂関政治の根幹が揺らぐ。あいかわらず洪水や暴風、疫病が繰り返され、1032年には富士山も噴火。おりしも、最澄の著作とされる『末法灯明記』から、1052年をもって、釈迦没後1500年の末法の世とされ、実際、1051年、離反を図る東北の豪族に対して終わりの見えない前九年の役(1051〜62)が起こり、頼通もまた浄土教を信奉して、道長の別荘、宇治殿を阿弥陀仏を祀る壮麗な平等院鳳凰堂に改修。