純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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主体は、独自の〈生活世界〉を持ち、行為や所有によってその統一整合性を確保しようとしている。しかし、この〈生活世界〉は、完結したものではない。その主体の所属するより上位の主体の〈生活世界〉の一部であったり、また、そうでないまでも、その周辺を他の主体の〈生活世界〉と共有したり、接触したりしている。また、その主体の所有するより下位の主体の〈生活世界〉が内在していることもなる。その結果、主体は、つねにこの自己の〈生活世界〉を再調整し、その統一整合性の維持に努力しなければならない。また、逆に、むしろみずから行動を起こし、他の主体に働きかけることによって、自己の〈生活世界〉の不完全な統一整合性を改善していかなければならない。

ここにおいて、その主体の調整や行動は、未来への選択となる。すなわち、自己の〈生活世界〉の内部の調整はもちろん、ましてや他の主体との交渉はつねに不確定の可能性に開かれているからである。しかし、未来というものは、その名のとおり、まさにいまだ存在していないことによって特徴づけられている。とはいえ、この[存在していない]という性質は、過去も、さらには、虚構も同様である。では、未来はどのように存在していないのだろうか。

素朴な俗説においては、我々の意識が現在の空間を超える時間の形式を持っている、とされている。しかし、真摯に反省するならば、我々はたかだか目前の現実ではない画像などのイメージを持ちうるだけであり、それもかなりまれで無理なことである。そして、その過去とも未来ともつかない、単なる現在の虚構の画像的イメージを、説明的に過去や未来としているにすぎない23。

23 意識における時間形式の問題については、アウグスティヌスやカントの理論が有名である。くわえて、一般に、哲学において、認識はイメージによる、という発想があるが、現実には、人間のイメージの能力ははなはだ微弱であり、認識や意志などの日用に耐えうるものではない。たとえば、我々は味覚や臭覚をイメージすることははなはだ難しい。また、画像や音楽をイメージしたとしても、そのイメージは、まさにイメージしている現在においてこそ存在しているのであり、それは過去のものでも未来のものでもない。

過去のものや未来のものとして説明されるものは、なにも意識における薄弱なイメージに限定されるわけではない。現在に内在する物事の特殊な一部も、一般にその過去や未来としての〈時性〉を付与することが可能であり、実際、かなりのものが、現在にあって現在ではないものとされている24。

24 現在の物事でありながら、過去の物事とされるものとしては、博物館の物品などがある。また、逆に、現在の物事でありながら、未来の物事とされるものとしては、新都市の計画などがある。

逆に、現在の物事を基準とすることによって、何のイメージなしにでも、その基準となる物事の過去や未来の物事を形式的に問題とすることができる。つまり、およそすべての物事は、いわば時性を転換する関数によって、別の物事を想定させる。そして、この時性転換関数とは、因果的脈絡を理解するものにほかなるまい。すなわち、ある物事の過去とは、その物事の原因となった物事であり、ある物事の未来とは、その物事の結果となった物事である。

この原因となったり、結果となったりする物事は、基準となる物事に対して、かならずしも代替的ではない。つまり、原因や結果は、当該の物事と現在において並存することもある。このために、現在に内在する物事の特殊な一部が、現在に存在しながら、過去や未来の物事とされており、くわえて、その物事が現在に存在しながら、現在の状況との適合性を持っていない(すでに失った、または、まだ得ていない)場合には、現在にあって現在ではないとされている25。

25 「代替」「添加」については、前章を参照せよ。

ただし、このように原因や結果とされているということは、現在の脈絡においてそのように設定されているということであって、かならずしも物理的・事実的なものではない。つまり、現在の〈生活世界〉の脈絡の統一整合性が失われないならば、虚構の過去や未来が設定されることもある。それどころか、むしろ、現在の〈生活世界〉の脈絡の統一整合性を高めるために、人間は好んで虚構の過去や未来を設定しようとする傾向がある26。

26 たとえば、太古の世界創造の神話は、いかなるものであっても、およそ現在の〈生活世界〉の脈絡の統一整合性には影響を与えないので、任意のものが設定されうる。そして、その任意の中でも、たとえば、ユダヤ教のように、混成民族にあって、民族の共通の祖先を想像することによって現在の〈生活世界〉の統一整合性を高めるようなものが選択される。また、災害や犯罪が起こったときに、たとえ冤罪であろうと誰かを魔女や犯人としてでっち上げなければ気がすまないのも、同じ人間の傾向に基づく。というのは、さもなければ、このような秩序の崩壊の原因が〈生活世界〉に潜在し続けているとすれば、それだけでも、その統一整合性が危機にさらされてしまうからである。

事実であろうと虚構であろうと、現在の脈絡において、その原因や結果として想定され、その過去や未来として設定された物事は、現在の〈生活世界〉の統一整合性をおびやかすものであってはならないが、しかし、それらの物事は、いったん設定された以上、状況の一部となり、可能的にせよ、機能的にせよ、〈意義〉として他の物事に影響を及ぼす。とくに、過去は、その〈生活世界〉の統一整合性を成立させている根拠の一部となっている場合には、強固な〈背景事象〉となる27。

27 〈背景事象〉とは、他の物事の適合(不適合)条件となる物事であり、このような脈絡規定効果を〈意義〉という。前章参照。

過去が〈背景事象〉となり、他の物事に対して〈意義〉を持つのは当然であるにしても、未来が〈背景事象〉となり、他の物事に対して〈意義〉を持つのは奇妙であると思われるかもしれない。しかし、先述のように、未来は、物理的・事実的に未来の物事なのではなく、あくまで現在の物事の結果として想定されているものであり、想定されているという意味では、まさに現在において想定されている。とくに、そのような未来の結果が組織や個人の〈存在意義〉として想定された場合には、強固な〈背景事象〉となる。そして、言うまでもなく、組織や個人の〈存在意義〉は、現在の物事のひとつである。

(純丘曜彰『価値論の基礎概念』から)