「日本人にも知ってほしい物語」インパール作戦を扱う平和資料館が現地に開館へ 日本人に資料提供への協力も呼びかけ - BLOGOS編集部PR企画

写真拡大

※この記事は2019年04月24日にBLOGOSで公開されたものです

2019年6月22日、インド北東部マニプールに日本財団が設立を支援したインパール平和資料館(Imphal Peace Museum)が開館する。同資料館では「平和と和解」をテーマに、戦時中、戦後、文化風習の3つの分野に分けて展示する予定で、インパール作戦に関して初の包括的な資料館になる。

沖縄県のひめゆり平和祈念資料館も参考にしたというインパール平和資料館は、戦争の歴史だけではなく、インパール作戦を経験した日本の兵士や現地の住民一人ひとりにも光を当てた施設にすることを目指している。【取材:島村優 翻訳:渡邊雄介】

激戦地・インパールに資料館を作る意味

マニプール州はインド最北部に位置し、ミャンマーとの国境にある地域。面積は22000㎢、人口は230万人とインド国内の州としては小さな規模だ。デリー首都圏などの地域とも距離が離れているため、東南アジア諸国への入口と見られているという。

州都のインパールは日本人にとっても関わりが深い。1944年に開始され、第二次世界大戦で最も凄惨な作戦の一つであると言われるインパール作戦は、マニプール州都のインパール攻略を目指したものだった。戦局は過酷を極め、日本軍として参加したほとんどの兵士が命を落としたことが伝えられているが、インド国民軍と協力し大英帝国と戦ったこの作戦がインド独立運動に影響を与えたという見方もある。

今回の資料館建設は、現地にこうした出来事を知る人が少なくなり、歴史が次世代に伝承されないという問題意識からスタートしたという。

設立メンバーの一人は、インパール平和資料館の意義について「戦争で戦った人々と、戦争から排除され、忘れ去られたたくさんの人々とのあいだに和解をもたらす」と説明し、施設のコンセプトが「マニプール州と世界をつなげ、第二次世界大戦とインパール戦争におけるマニプールの重要性を高めること」だと明かす。

博物館のメインテーマは、異なる国や地域の人びとが集まって、戦争に巻き込まれたすべての人々を報い「戦争に勝利などない」というメッセージを伝えていく“平和的和解”の場所を作ることだという。

日本人との間に生まれた「感情的なつながり」

幾度となく「和解」という言葉が強調されているが、地域にはどのような分断、対立があるのだろうか。また、そこに当時の日本軍はどのように関わっているのだろうか。このように質問すると、第二次大戦インパール作戦財団会長であるRajeshowor Yunmam氏は次のように教えてくれた。

「戦時中は主に3つのコミュニティがありました。メイテイ人(Meitei)、ナガ族(Naga)、クキ族(Kuki)です。基本的には主にこの3つのコミュニティが戦時中に存在し、彼らは直接的にも間接的にも戦争に巻き込まれました。それらのコミュニティが一方の国とより積極的に提携したことには理由があります。

ナガ族の人びとはより積極的に英国とともにあったと理解することができます。彼らのコミュニティのリーダーは英国の将校と近い位置にいたため、彼らはとても英国的でした。反対にクキ族のリーダーはインド国民軍に参加していたのです。つまり、インド国民軍を通じて彼らは、日本軍とコンタクトをとっていました」

ただ、各コミュニティがどの陣営につくかに政治的な判断はなかったという。

「彼らにはいかなる政治的偏見もなかったと感じています。それは単に、『わたしは日本人と会って友達になった、だから日本を支持する』といったようなものでした。あるいは、ナガ族の人びとにとっては、ある英国人と出会い、家族や友人、親戚も村もみな英国を支持するようになった、そのような感じです」(Rajeshowor氏)。

第二次大戦が行われていた当時は、プロパガンダを行うためのメディアがなく、コミュニケーションの手段も存在していなかった。つまり現地の人々にとっては日本軍や英国軍は知り合いのような存在であり、そこに「政治的なイデオロギーは関係なかったのではないか」ということだ。

マニプール自体は中立地だったため、どちらかの陣営を支援しなければならない事情はなかったという。当時の人々と日本軍の関わりについては、次のように教えてくれた。

「わたしたちは日本人と顔や見た目が似ていますから、なんらかの感情的なつながりといったものあったと思いますし、それは未だに残っています」

ひめゆり平和祈念資料館も参考に

Rajeshowor氏らは、長らくインパール作戦にかかわる資料収集や遺留物の発掘を行ってきたが、平和資料館は戦争にまつわるものだけを紹介する場にはしたくなかったという。来日時には、沖縄県の「ひめゆり平和祈念資料館」を訪問し、展示方法や内容について参考にした。

日本財団のアドバイスも受けながら検討を重ね、資料館では銃弾や爆弾といった戦争の遺留品だけでなく個人の持ち物も展示し、また戦争に参加した人々の個人史も紹介する方針を決めた。ただ、現在のところ日本軍に関する資料はまだ十分でないため、インパール作戦に従事した家族や知人がいる日本の人たちに、資料提供への協力を呼びかけている。

マニプール観光協会の事務局長Haobam Joyremba氏は、インパール平和資料館がオープンした際には、日本人にも現地を訪問し、戦争の歴史や日本軍と現地の人々の関わりを知ってほしいと話す。

「インパールとマニプールは戦場となり、そこでの日本側と連合国側の戦いは、第二次世界大戦の歴史に記録された戦いのうち、最も激しいもののひとつとなりました。日本軍は短期戦を予定していましたが、それでもその惨状と人命の損失は莫大でした。インパール、そしてマニプールと呼ばれる土地で、何百、何千という魂が失われ、犠牲になり、彼らの魂と身体はマニプールの空気や水、土壌と一つになったのです。その土地は何千人もの日本兵のための永眠の地となったということです。

私たちが日本人の方々に知っていただきたいのはこの物語であり、死者の魂に最大限の敬意を払ってほしいと思っています。マニプールは戦場の一部ではありませんでしたが、マニプールの人びとは避難所と食料を提供することによって日本人を支援しました。日本人とマニプールの人びとのあいだには、ある種の感情的なつながりがありました」

現地でも戦争を経験した人々は高齢になっているが、日本についての記憶がまだ残っているという。

「彼らは既に年老いており90代であったにもかかわらず、10まで数えたり、日本の歌を歌ったりと、多少の日本語を話すことができていました。これは、何千キロメートルも離れたインパールと呼ばれるこの土地にやって来た人々の努力のたまものに他ならず、彼らがここで永遠の休息を得たとき、自然と混合し一体化したのです」

もとよりこうした記憶によって日本軍の戦争を美化し、正当化すべきではないが、Haobam氏は、現地の歴史には世界が先へと進むきっかけがあると強調する。

「今こそ尊敬と敬意を示し、戦争に勝者などいないということを全世界に伝え、平和と和解へと向かうときなのです」

日本財団 インパール平和資料館に関する事業
https://www.nippon-foundation.or.jp/what/projects/imphal