※この記事は2019年04月10日にBLOGOSで公開されたものです

通行制限を示す看板 撮影:長屋陽

1月、福島を取材した。その中には東日本大震災時に事故を起こした福島第一原子力発電所構内も含まれている。BLOGOS編集部として福島第一原発を取材したのはこれがはじめてのことだった。

前提として、筆者は2011年6月ごろ、関西から東京に居を移した人間だ。これは日常生活レベルで見れば、すでに震災後の混乱は収まりつつあった時期になる。つまり、自分は「被災者」ではなく、震災についても、原発事故についても、当時の事をリアリティを持って語ることはできない。以下はそんな自分が福島第一原発とその周辺にあるすでに除染が行われた地域と、通行が許可された一部の帰還困難区域を訪れ、感じたことだ。

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取材当日、富岡町にある東京電力廃炉資料館に集まった我々は、そこから東京電力の用意した車に乗り込み、福島第一原発に向かった。原発への道中、脇道に入る度に幾度となく線量計の警告音が鳴った。不思議なもので、頻繁に鳴り続ける線量計を見ていると、心配よりもうっとうしさが勝ってくる。自分は早々にマナーモードに設定を変えてしまった。

集合場所となった東京電力廃炉資料館。以前は福島第二原子力発電所をPRするための「エネルギー館」だった 撮影:長屋陽

原発構内の取材は、簡単なブリーフィングのあと東電社員とともに構内専用のワゴン車に乗り込み、許可されたポイントをぐるぐると周りながら行われる。事故から8年が経過したいま、東電社員の案内も手慣れたもので、誤解を恐れずにいえば、さながらバスツアーのようですらある。

とはいえ、構内にはいまなお事故の爪痕が生々しく残っている。「ここが爆発した2号機と3号機の間です」そう言われて頭上を見れば、むき出しになった鉄骨と欠けたコンクリート壁が姿を見せる。だが、「ここで原発事故が起こったんだ」と感じられるような緊迫感はもうここにはない。作業員が行き交い、挨拶をし、食事を取り、作業する。淡々と作業が進められる巨大な工事現場。いまある福島第一原発の日常を表現するなら、そういった言葉が適当だろう。

原子炉建屋には事故の跡が生々しく残っている 撮影:長屋陽

福島第一原発の廃炉作業には30年から40年を要すると言われているが、この期間に明確な根拠があるわけではない。すべてが予定通り進めば、それくらいで終わるのではないかというだけの話だ。おそらく、作業員達も終わりを意識しながら作業しているわけではないだろう。そもそも、彼らは一定以上の被ばく線量を超えると、別の作業員と入れ替えられる。その後しばらくしてまた戻ってくる者もいれば、戻ってこないままの者もいる。

原発構内は軽装でもかなりの区域を見ることができるが、場所によっては、このような全身装備も必要になる 撮影:長屋陽

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福島第一原発に入り、「ロッコク」と呼ばれる国道六号線を走り、周辺地域を車で周ると、「復興」とはなんなのかと思う。朝日新聞社と福島放送が福島県民を対象におこなった調査によると、復興への道筋が「ついた」と考えているのは52%※1ということだが、福島県は広大で、震災後も地域毎に抱えている課題が違う。今回我々が周った原発周辺の地域が難しい状況にあるのは、一見すれば誰にでもわかる。

原発では終わりの見えない作業が続き、ロッコクはいまだフェンスだらけ、そこかしこにある除染作業で出た土を詰めた黒いビニール袋の山、同時期に建てられた、作業員が暮らすアパートの数々。これが原発周辺地域の現状だ。これらはすべて原発事故にまつわる事情によってできたもので、今後この地域をどう建て直すのかという目途は、いまだ立っていない。

町外れには除染作業で出た廃棄物が山積みにされていた。この風景はそこかしこで見ることができる 撮影:長屋陽

4月10日、大熊町の一部で避難指示が解除され、住民達が戻れるようになった。それ自体は喜ばしいことではある。しかし、それ以前に一部避難指示が解除された浪江町にはいまだ人々の姿は少なく、あたりを見て回っていても、出くわすのは土煙を上げて走るトラックばかりだった。はたして、「ある地域の線量が下がったので、帰還できるようになりました。戻ってきた住民は数%です」というこの状況を復興したと言えるのだろうか。それは政治の論理で、「一応片付いた」というだけのことではないか。

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東電は「許されない事故を起こしてしまった」とひたすら頭を下げながら、淡々と廃炉作業を進める。政治は「線量が下がって人が住めるようになりました」と喧伝する。では、避難を余儀なくされた住民たちはどうだろうか。

浪江町から避難したある人に話を聞いたところ、「私たちは元通りの生活がしたいだけ」と話してくれた。素直に考えれば、それが人々にとっての復興だろう。彼は話しているあいだ東電を批判することはせず、むしろその対応を評価していた。ただ、故郷を離れざるを得なくなったことについては、残念だと語っていた。

夕暮れ時の浪江町駅前。街灯は付いているが人の気配はない 筆者撮影

東電と政治、住民たち、それぞれの「復興」が交わることはないまま、8年という年月が経った。そして、復興に向けた作業はこれからも続き、周辺地域を掘り帰した除染土と、廃炉作業によって出た廃棄物は増え続ける。

本当は薄々、気付いている。「元通り」はあり得ない。原発に依存しない、新たな経済圏を作り、それなりにやっていく必要がある。だが、暮らしを奪われた側はそんなお仕着せの結論をあっさりと飲めるわけもない。

いずれ、政治によって決められた「復興」が終わる日がやって来る。この地域はその頃、どうなっているのだろうか。ただひとつ言えるのは、一部避難指示が解除された今も、住民たちが願う「復興」とはほど遠い状況だということだ。

※1 復興への道筋「ついた」52% 福島県民対象の世論調査 - 朝日新聞デジタル