※この記事は2019年04月05日にBLOGOSで公開されたものです

4月1日に働き方改革関連法が施行され、「有給休暇(有休)」を義務化する新ルールが適用された。企業には、年間の有給休暇が10日以上ある従業員に対して、年5日の有休を取得させることが義務づけられる。

厚生労働省によると、平成29年の「年次有給休暇日数」は平均9.3日で、取得率は51.1%。世界19ヶ国の比較調査では、ワースト2位のオーストラリアでも取得率が70%となり、日本の取得率が低い水準であることがわかる。

日本ではなぜ有休が取りにくいのか、という問題に対しては、法的な理由、実務的な理由、社会的な理由など様々な答えが挙げられる。この記事では、現在につながる近代的な「休日」がどのように生まれ、またそれが現代の「忙しさ」や「休みにくさ」とどう関わっているのか考えてみたい。【BLOGOS編集部 島村優】

江戸時代の休みは村ごと、年20日しかないところも

世界的に日曜休みを採用する国は多いが、この習慣はキリスト教の休日が普及したものだと考えられる。旧約聖書で神が6日間で天地創造を終え、続く7日目に休息を取ったことに由来し、ユダヤ教・キリスト教では週に1日は仕事を休み礼拝を行う「安息日」を設けている。キリスト教ではイエスの復活した日曜日が安息日にあたるのだ。

ただ、日本で日曜日が休日とされ、さらには世の中の多くの人々が共通する「休日」を持つようになったのは比較的最近のことだ。

江戸時代には、村ごとに休日が決められており、その日数も現代の感覚からすると非常に少なかったと言われている。三重県の県史編さんグループによると、美濃国のある村では正月や節句といった祝祭日のほか、農業の休みや祭礼に関わる日が年間で合計約25日、紀伊国の大俣村では「正月・盆で6日間、五節句で5日間、農事・祭礼行事等の『村中休日』で5~8日で、およそ16~19日ほどの休日」(原文ママ)だったという記録があるという。

こうした江戸時代の農村社会の休日について、日本近代史を専門に扱う慶應義塾大学経済学部の松沢裕作准教授にお聞きしたところ、 『増補 村の遊び日』(古川貞雄著、農山漁村文化協会、2003年)を参照しつつ次のように説明してくれた。

(江戸時代の休日は)「遊び日」などと呼ばれ、定例的に農作業を休む日が決まっていました。全国一律の休日ではなく、村ごとに休む日を決めていました。祭礼の日などが多いですが、臨時の休みが設けられることもありました。休みの日数には地域差が大きいようですが、年間30~40日台から最大80日に及ぶという研究があります。江戸時代の後期を通じて、定例遊び日・臨時遊び日ともに、増加してゆく傾向にあったといわれています。

「小学校の休みは月3日に」と要望も

明治時代になると、国家が休みを制定する動きが見られるようになる。

1868年(明治元年)1月には「参退時刻休暇臼井議事規程ヲ定ム」というお達しが出され官庁は「一六ノ自体」を休みとすることになった。

一六休みとは、1日、6日、11日、16日、21日、26日を休みとする制度のこと。「一六どんたく」という呼び方を聞いたことがある人もいるのではないだろうか。ちなみに、この「どんたく」はオランダ語で日曜日を意味するzondagが訛った言葉。まだ曜日の観念自体が広まっていない時代に、日曜日が転じて休日の意味になったことは興味深い。

ただ、こうした規定が及ぶのは官庁や役所にとどまっており「農村では多くは江戸時代以来の休み日の習慣を維持し」(松沢准教授)ていたそう。現代の土日のように決められた休みの日がなく職種によって休日が異なるというと、なかなか不便そうだ。

実際、1872年11月23日の東京日日新聞(現・毎日新聞)には「公定日不定の悩み」についての投書が寄せられている。その文章では、官職が一六休みなのに対し、民間で働く人は地元の祭日や縁日、あるいはそれぞれの休日などで休んでいるため、「官民休楽の日」が同じになることを願っている、とつづられている。

実際、1872年11月23日の読売新聞には「公定日不定の悩み」という投書が寄せられている。その文章では、官職が一六休みなのに対し、工商農業に携わる人は地元の祭日などで休んでおり「願くは官民休楽しの日を同じにせん事」と本音がつづられている。

この時期の新聞をもとに「休日」に関する投書をもうすこし見てみよう。

1875年の6月25日付の読売新聞には、“麹町の棒一本で食人”という現代のラジオネームでもおかしくない小粋な名前を持つ読者から「寄席の女芝居が日中から大入り 日本には遊んでいる者が多い」という趣旨の投書が寄せられている。

麹町九丁目の若竹という寄席で女芝居が始まり、毎日大入りで遅い時間には満席で入れなくなっているというニュースを受け、麹町の棒一本で食人氏は次のように書き記す。

是を見てもまだ日本には遊んで居るものが多いと見えて、此月日と惜しまずに昼のうち暇とつぶす事を考えず夢中で居るには成るほど眼が覚めぬ人が多いかすらん。西洋の人は休日の外昼のうちわざと休む者は薬にしたくもありません。

※現代仮名遣い変更、句点追加筆者

日本には遊んでいる者が多く、西洋人のように休日だけでなく昼も休むような生活は良くないと苦言を呈している。名前によらず、とても仕事に対する意識が高い人のようだ。

また1875年12月15日の読売新聞には「学校の休日が多過ぎる 月に3日ぐらいでよい」といった内容の投書も見られる。

この文章を書いた麹町井上新吉氏は、近頃は多くの子どもたちが学校に通っていることが喜ばしいとしながら、「或る学校で一六の日は休みますと聞いて大きに疑いが起こりました」と書く。

同じ一六休みを採用している官庁で働く人は毎日忙しいため、「一六でも毎日でもお休みでも構いません」とするが、その一方で「一時の間もむだに此の日を送るのは子供のためにならないばかりではなく、人間は少しも空しくいたしていないのが本分」と語気を強めている。

そして、文章の締めくくりで次のように結論づけた。

私の思うには一六休みの学校は日曜日休みにいたすか一の日休みとして三度くらいにいたしては。以前江戸の手習師匠の休みは五節句と月々二五ぐらいそれから見ると一六休はあまり過ぎるかと思われます。

※現代仮名遣い変更、句点追加筆者

この当時の新聞からは、一部の先進的な人にとって多くの人は休みすぎだと映っていたことが窺える。

ちなみに、その後全国で統一的な休日・祝日が定着したのは1900年代の初頭だったというが、その際に「小学校が国家的な休日・祝日の定着に果たした役割が大きかった」(松沢氏)とのことだ。現在の労働基準法でも休日の具体的な曜日についての規定はないが、多くの人が土日=休みだと認識する背景には、官庁・学校休みであることが大きく影響していると考えられる。

明治時代から見られる「努力が足りないから貧しくなる」論

明治初期は政府も農村社会の休みが多すぎると考えていた、と指摘するのは一橋大学名誉教授の斎藤修氏だ。

同氏は、日本の労働と生活の変化をまとめた「農民の時間から会社の時間へ」という論文の中で次のように書いている。

明治以降における労働時間の歴史において決定的な役割を果たしたプレーヤーは国家であった。明治の初めは、政府も労働時間を長くする勢力に加わった。明治政府が国家の休日を制度化した理由のひとつは、「農村の休日は多くて困る」(内務官僚の発言)ということだったのである

斎藤修「農民の時間から会社の時間へ:日本における労働と生活の歴史的変容」社会政策学会誌、2006

冒頭で農村の休日を見たが、現在から考えると80日程度の休みが「多くて困る」と考えられていたとは驚きだ。

ちなみにこの論文では、徳川時代には「農民の時間と商家の時間という2つの観念」があるとした上で、これが「自営業と会社の時間」に変わり、現代人の労働時間が長くなったことにつながると興味深い指摘をしていることを付け加えておきたい。

話を元に戻そう。「農民が休みすぎ」だと考える当時の空気を理解するために、歴史学の用語をひとつ紹介しておきたい。それが歴史学者の安丸良夫氏が作った「通俗道徳」という概念だ。

松沢氏は「通俗道徳」について、「人が貧困に陥るのは、その人が勤勉に働き、貯蓄をするという努力が足りないから」とする考え方だと説明する。

江戸時代の後半からみられる考え方ですが、明治時代に入り、厳しい競争社会となったことによって、人々にひろがりました。厳しい競争社会のなかでは、人々はチャンスがあればできる限り利益を得ようとするので、休まず働くことが美徳とされますし、実際そのように行動します。休みが贅沢とか必要ないかというのは主観の問題ですが、競争が厳しいと休まず働かざるを得なくなります。

なるほど、厳しい競争社会で休まず働くことが美徳とされ、実際に休まず働かざるを得ないような状況も生まれていたのだ。こうした概念が、当時の人々の「休日」に対する意識につながっている、さらに言うと現代の日本にも似ていると考えるのは穿ちすぎだろうか。

松沢氏は、『生きづらい明治社会』の「おわりに」を次のような言葉で締めくくっている。

明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増していく社会の中では、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。そして、「がんばれば成功する」という通俗道徳のわなに、簡単にはまってしまうということです。それを信じる以外に、未来に希望がもてなくなってしまうからです。

松沢裕作『生きづらい明治社会』p.150 岩波書店

「がんばれば成功する」と信じることでも未来に希望を持つ、という思考様式は戦後を経ても生き残り、経済が右肩上がりに成長していた昭和40年代から現代まで、依然として形を変え私たちの心の中に潜んでいるように思えてならない。

時は2019年、今月いっぱいで平成は終わり、5月からは令和の時代が始まる。私たち自身が「通俗道徳」のわなを避け、仕事をしっかりと休むことから、長く続く社会の生きづらさを変えていくことはできないだろうか。


・生きづらい明治社会――不安と競争の時代 (岩波ジュニア新書)