いとうせいこうが挑んだ「お笑い理論」の分析整理『今夜、笑いの数を数えましょう』 - 松田健次
※この記事は2019年04月02日にBLOGOSで公開されたものです
気にかかった笑いのカケラを拾いあげ、しげしげと眺める。のが、いい。「笑い」でときめいた余韻に少しでも長く浸っていたい、その記憶をとどめていたい、という時間だ。そんな自分にとって、しかも、この平成が終わろうとするタイミングで本書「今夜、笑いの数を数えましょう」(講談社)が刊行されたことにまっすぐの嬉しさを覚えている。 今夜、笑いの数を数えましょう
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講談社 (2019-02-27)
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「今夜、笑いの数を数えましょう」は、いとうせいこうによる対談集である。(対談構成はモリタタダシ) ジャンルを飛び越えてエンタメとカルチャーを攪拌する才人いとうせいこうが、その表現の支柱のひとつである「笑い」に特化し、「笑いの種類」の分析整理に挑むトライアルの入り口のような一冊だ。
序章でいとうは語る。笑いはその表現者によって「舞台での具体的な体験が論理的に語られていたり、帰納的に体系化されていたりするわけでもない」と。
なるほど概して、芸人は芸論を表にあまり語りたがらない。あの笑いはどう発想して、どう具体化して、どう試して、どう磨いて、どう演じて、どう修整したものなのか・・・等々、手の内をつまびらかにすることに対し、拒否感や羞恥心がはたらくのだろう。「まあまあ」なんてケムに巻くようなフェイク対応で、事実を霧の中に隠したりする。芸能の世界で芸能者が「核心」を語る行為、自身の表現を言語分析する行為を、総じて「野暮」だとするスタンスは脈々と在る。
このあたりを遡ると、14世紀に世阿弥は「風姿花伝」で能の演技論を著している。そこには現在の芸能全般に照らして色褪せない、時空に揺らがぬ理論が綴られていて、今読んでもまったくうなずける。
語らぬ者あれば、語る者あり。比べれば語らぬ方が圧倒的に大勢を占めてきたと思う。楽屋内を明かすことにメリットは少ないのだから仕方ない。
が、その中で近頃は、例えば「M-1グランプリ」などの賞レース前後に、プレイヤー(芸人)がスキルに踏み込んだ解説に乗り出す機会が見られるようになってきた。例えば昨年末、「岡村隆史のオールナイトニッポン」(2018年12月6日放送)でNON STYLE石田明が披露したM-1後の解説はとても聴き応えがあり出色だった。例えば、演者と観客との距離感など、プレイヤー側の視点を交える漫才への寸評は、芸人ならではの経験とスキルを背景にした興味深いものだった。
そして、いとうせいこうは「笑いの数を」において自ら白羽の矢を立てた、笑いの表現者たちとの対談を通し、自身のプレイヤーとしての経験論や技術論をベースに笑いの分類化と解説を展開している。無数にまばたく笑いの星海から「言葉や数式になりにくい」笑いのパターンを抽出し、ランダムにマーキングしていく。その仕組みを一枝一葉ごとに解き明かしにかかり具体的な言語化を試みる。
結論を言えば、それらが整然と分類体系化されるまでには至らない。自身の引き出しにしまわれて整理されずに詰まっていた個々の笑いを、これを機会に陽にさらして端から端まで並べてみようという段階だ。であるにしても、ここで続々と俎上にあがる種々の笑いは、蒐集の悦びもあいまって、自分にとっては「身悶え」以外の何物でもない時間となった。
本書で語られる、笑いにまつわる言葉の数々に、何度も時を止めてしまった。
< 「今夜、笑いの数を数えましょう」(講談社)より >これでもかなり間引いての引用なのだが、付箋を付け過ぎて役割をなさない付箋超過本となってしまった。そして、通読後にあらためて感じたのは、笑いを語る際の「世代」というバックボーンへの意識だろうか。 ケラリーノ・サンドロヴィッチとの対談では、バスター・キートンやマルクス兄弟など、戦前アメリカの喜劇映画への言及もあるが、他、倉本美津留、枡野浩一、バカリズム、きたろう、という面々とはそれぞれの活動歴と観賞歴の中で笑いを語っている。そして、宮沢章夫とは、いとうが活動を共にした80年代のユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」によって醸された笑いのサンプリングが頻出し、よりシンクロ度が強まっていくように感じた。本書における太い葉脈が浮き上がるかのようにだ。
「(自ら考案したフリップ大喜利について)実は原点になったのはマグリットの『イメージの裏切り』なんですよ」(倉本美津留)
「スポーツに匹敵する笑いは可能か」(いとうせいこう)
「なにしろお笑いの人は、お客の反応がすべてなんですよね。受けるものだけが正解という世界なんですから。そこが演劇の人との一番の違い。良し悪しは別として、笑わせてなんぼのところで戦ってきた人特有の価値観が染みついてる。」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)
「基本的に今の人たちはツッコミを笑わせるタイミングだと思ってるけれど、ホントは主になんの機能があるかというと、そこまでの状態のまとめなんですよね。(略)ツッコミは昔の芸人に言わせれば基本的に筋を運ぶためのものであって、そこで笑わすという意識ばかりじゃなかった。」(いとうせいこう)
「ヘタにツッコミを入れるより気づくだけのほうがおかしかったりする」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)
「(初めてマセキ芸能のライブに出ることになり)最初に一番意識したのは、面白いことをやるというよりも、面白くないことをやらないっていう考え方でした。」(バカリズム)
「ナンセンスはホントに境界線の引き方が難しいよね(略)、狂気の線をどこに移動させるか」(いとうせいこう)
「なんか、コンビってダセーなというのがあったりして。(略)形式の話なんですけど、舞台上に二人が並んでいるのはものすごく平面的だなと思っていて。やりとりがお互いしかないじゃないですか。でも、ピンって立体的なだと思って。(略)二人より三人の方がいいと思う。東京03が好きなんですけど、三人いる状態が一番立体的だと思うんです。」(バカリズム)
「(大喜利での回答は、お題を)言われた瞬間にたくさん出てくるんですよ」(バカリズム)
「(19世紀の哲学者ハーバート・スペンサーによる笑いに関する説では)神経に興奮がたまって通常の行き場ななくなる。言葉で言えないようなことが起こると、変な声が思わず出ちゃうとか、泣いちゃう場合もあるよね。(略)感動しようとしていた神経の予想された興奮の高まりの行き先みたいなものが閉鎖されてしまう。そうするとどっかからそれがあふれちゃうから声が出ちゃったり、横隔膜が振動しちゃったり、手を打ったりする。それが笑うってことなんだと言ってるんだよね。(略)これは意外性ってことともつながってるでしょ」(いとうせいこう)
「3醱=犬」(バカリズム)
「『M-1』の準決勝を観ていても、映像になった時に何かが損なわれてしまうネタがある」(枡野浩一)
「舞台の笑いとテレビの中の笑いが違ってくるのは明らかで(略)笑い待ちをどうするかは、芸人にとってはものすごく重要なテクニックなんだけど、笑ってる間にセリフかぶせちゃうと聞き取れないから、そこのウケが減ってしまう。でも、そこで変な笑い待ちをしちゃうと、テレビ上ではおおいにテンポが狂っていくことがある。」(いとうせいこう)
「人を傷つけて成立してる一方的な笑いは根本的に面白くない。だけど、だからといって無色透明な笑いがいいのではない。やっぱり弱い人を攻撃する笑いが卑怯なんですよ。多数とか強い立場とかから弱いやつをからかうのは、単純な下ネタみたいに簡単だし、テクニックもいらない。ただし、そこで誰が弱者か判定していくのは、テレビのスタジオにしかいない人には体感として無理になってくる。その上、あれもダメこれもダメと手足縛られた場合に笑いに何が残るのか、心配はある。」(いとうせいこう)
「怒りも心から怒ってる時に他人事だったらおかしいけれども、同じ怒りをもし客席が共有している場合はただ怒るだけ。」(枡野浩一)
「談志さんがラーメンズについて『まあ、面白いけれども芸能じゃないんだよな』って言ったのね」(宮沢章夫)
「本質と別のところで何かが起こることを、我々は面白がるところがあるでしょ。」(宮沢章夫)
「うーん、笑いを語るってカッコ悪いよね」(きたろう)
「真面目に言えば言うほど面白いんですよね。ただ、ほんとに真面目な人がやってもさほど笑えないんだよね。(略)ふざけた感じが奥底に入ってる人じゃないと面白くない(略)状況のおかしさをまさに『半忘れ』して、それをあくまでも真面目にやるっていうね。フラの意識的な作り方にも通ずるんだけど。」(いとうせいこう)
「自分で自分を疑っている人は面白いんだけど、疑っているだけだと、ちょっとつまんないからね。一方でむやみに信じてる面があるのはおかしい。」(いとうせいこう)
「ボケはちゃんと演技しなきゃダメなんだ。それに対してツッコミは普通の人だから、普通に言えばいい」(きたろう)
「初発の何かを仕掛けてくるボケの方が、最初のきっかけが決まってないから、すごく難しい」(いとうせいこう)
「リズム感的に言うと、どうやったらかっこいいかってことと、どうやれば面白いかはほとんど同じだから。」(いとうせいこう)
「含羞、恥ずかしさみたいなこともテーマとしてよく語られてたけど、恥ずかしいんだと思うんだよ、みんな。でも、恥ずかしいことを知らないで出てる人を見てると、見てるこっちが恥ずかしいじゃん。ただ恥ずかしいんだったらなぜ出るの? って疑問が常にあるわけだけど、それはね、止むに止まれぬ何かがあるんだよね。パフォーマーというのは。」(宮沢章夫)
「確かにそう。恥ずかしい、意地汚いことをしに、舞台に出てるんですよ。いくら笑いなんてほしくないみたいな顔でかっこつけて出て行ってもさ、笑いがほしくてほしくてしょうがないんだもん(笑)」(いとうせいこう)
現在50代前半である自分は、幸い学生時代に「ラジカル」を同世代的に体験。ラフォーレ原宿で行われた「ラジカル」の公演を観劇している。86~87年あたりだ。
大竹まことが他の面々がアテレコする意味不明な人形にキレたり、ある会社の「受付」が台から顔の上半分だけ出して喋る対応で口元が見えない違和感が笑いに転じたり、加藤賢崇が短い台詞を口にするだけで卑怯なほど可笑しかったり、シュールとナンセンスの境界に笑い転げたことを覚えている。(もしかしたら幾つかの公演が混同しているかもしれない)
また、公演のエンディングでいとうせいこうがラップで「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」と連呼しながらメンバー紹介したシーンがかなり鮮やかに記憶に焼きついている。いとうは紺系のニット帽に白いTシャツに紺ベースでチェック柄のペダルプッシャーっぽいパンツルックで、ヒップホップ界隈で芽吹いているのだろうと思わせる小刻みなステップを踏んでいた。
それらもすべて含めて、これが笑いのライブシーンの突端なんだなと高揚した。笑い疲れて劇場ロビー出ると、ワハハ本舗の(当時はその方面の下北沢界隈のセンターヒロインでもあった)久本雅美の姿が目に飛び込み、周りが久本をスルーしていく中で声を掛けて小さなサインを書いてもらった。久本のトレードマークだったナスの絵が添えられていて、高揚にひとナス分のオマケがついた。
少し横道にそれたが、当時のいとうせいこうがピン芸人として放ったネタの中で、妙に記憶に残っているものがある。これはおそらく80年代後半、AMラジオで放送された「スネークマンショー」や「ラジカル」の流れをくむ類の番組の中で耳にしたものだ。
シーン:満員電車に母と子が乗っているなおこれは記憶の再現の為、正確な採録ではない。いとうせいこうが母子二役を演じ、満員電車で聞き分けのない子どもが唐突に社会運動家たちの名を口にして、母が困惑するというラジオコントだった。ここで扱われた笑いに何らかの分類を施せば「満員電車で聞こえてきたら気まずいこと」「子どもが言わないこと」という設問への解になるのか。また、当時ツービートの漫才にジャンケンでのボケで「フレミングの法則」を出すギャグがあったが、そこに類する「教科書ワード」という分け方もできるだろう。
SE 電車の発車アナウンス~走行音
子「ママー、ママー」
母「静かにしてなさい」
子「ママー!ママー!」
母「静かにしてなさい、よしおちゃん」
子「ママー!!」
母「静かにしてなさい」
子「こばやしたきじ(小林多喜二)」
母「(小声で)シッ、そういうこと言わないの」
子「おおすぎさかえ(大杉栄)」
周りの乗客「(ざわつき)」
母「ちょっと、どうしてそういうこと言うの、(周りに)すみません・・・ホント、ねえ・・・。(子どもに)いいから黙ってなさい」
子「こうとくしゅうすい(幸徳秋水)」
母「だから、どうしてそういうこと言うの!」
子「(人名連呼)」
周りの乗客「(ざわつき)」
母「よしおちゃん!」
それにしても、ここで用いられた人名には倫理的な重みがヘビーにあって、自分はこのコントを聴いてクスっとしつつも、こういうのってどれぐらいありなのかなあ? と笑いだけで飲み込みきれなかった。それゆえ長く記憶に貼り付いていたものだ。今から思えばだが、いとうはこのときメディアにおける「自粛ワード」のリミットを試していたのかもしれない。
と、つい外野からも自身の引き出しを開けてしまいたくなるような、そんな刺激に満ちていたのが「今夜、笑いの数を数えましょう」だった。中でもいとうせいこうと宮沢章夫の間でやりとりされた「笑い」への同時代感や空気感が、自分自身の笑いの記憶の扉をより強くノックしてきて、笑い(への深い共振)は世代論と切り離せない、という、とても当たり前のことを突きつけてきた。笑いを語るということは、語り手と受け手の「世代」「経験値」で共感度が左右される、という当たり前のこと、その再認識をだ。
本書では、宮沢章夫がそこに対して明らかな意を差し向けていた。宮沢は小林信彦の名著「日本の喜劇人」(――戦中・戦後~高度成長期、日本の笑いの変遷を自身の広範な観賞体験をベースに包括した圧巻のクロニクル。1972年刊行。1978年増補「定本」版刊行)に言及し、この一冊によって自身が笑いの仕事へ惹きこまれたことを明かし、「ある一定の笑いの好きな者に決定的な影響を与えた」影響力を称えつつ、これが小林信彦による日本の笑いに対する「青春と挫折の記録」であり「小説」であり「小林史観」であり「功罪もある」という見方を示した。
そして「小林さんが書いていることが本当に全部事実かというと、ちょっとわからない。たしかに事実をもとに書いているんだけど、そこに小林さんの文体の見事さがあって、特別な物語として読んでいたんじゃないかな。」と総括しながら、「小林信彦さんが触れなかった笑いっていうのがある。その中の一つで非常に代表的なのはやっぱりタモリさんだと思う。これは道化とそうじゃないもの。これは時代だと思うんだよね。(略)八〇年代になって、もう一つ別の笑いが出てきた。」と、世代論を提示する。
ちなみに「日本の喜劇人」では定本版でタモリにも触れている。だがそれが70年代後半の「ぎらぎらした」タモリまでであり、後年、樋口毅宏が「タモリ論」(2013年 新潮新書)で指摘するような絶望や諦念を内に秘めたタモリの笑いには触れていない。なお、前述の宮沢の発言を受けていとうせいこうは「まず笑われようって感じの笑いじゃないってことですよね。」と、芯を捉えた補足を加えている。
宮沢章夫はそうして自身のニン、自身が語るべき笑いは、小林信彦以後なのだと線を引く。語り手の立ち位置として、より真っ当に対峙することが出来るのは「同時代」「同世代」であると。
それはまあ、その年代に即した表現者が、その年代を語ることが相応しい、なんて当たり前であり、何を今さらわかりきった話をくどくどと、と、鼻白むかもしれない。だが、「笑いの数を数える」ことは、いとうが前口上で述べている「(笑いを)言葉や数式にしてみたい」という行為でありつつも、個々の笑いに紐づく世代的なもの――<その笑いが降りそそいだ時代の空気>――を切り離して無機的には扱いきれない、という話になるんじゃないかな、という思いが立ち上がってくるのだ。
笑いを無機的でなく有機的に見据えると「日本の喜劇人」が選んだ捉え方を大いに含むことになる。だが、有機が過ぎると私観というフィルター(例えば好み、好き嫌いとか)が一方的に働き、そこにあった笑いの真価が歪んで捉えられてしまうことにもなりかねない。すると歴史の改竄にも繋がってしまう。
あああ、「笑いの数を数える」際の無機と有機のバランスやいかに・・・。どうしよう、ここまで書いておいて着地の仕方がわからない。ああだこうだとグダつきながら、この、ああだこうだゾーンにハマる至福にいざなってくれた「今夜、笑いの数を数えましょう」に感謝しておこう。本書は笑いをこねくり回して身悶える小理屈好きな人種の為の福音書だと。なんて書くとむしろ足を引っ張ることになるのかな。いや、構うものか。だって、「小林史観」だなんて、笑い史の歴史修正を迫られるような、のけぞらずにいられないワードがあるような本なんだから。
今夜、笑いの数を数えましょう
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