右が使い古した雑巾。新品の手ぬぐいがここまでくるのに4年以上かかりました。しかもこのくらいの穴ならまだ雑巾としては現役であると判断しております(写真:筆者提供)

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第50回をお届けします。

「買い替える」のが当たり前の社会

前回まで、「使い捨て」と手を切ったことでスルリと手に入れたわが「心安らかな人生」について滔々と語ってきたわけですが、ま、改めて考えてみればこんな発想は今ドキ特に珍しいというわけではなかろう。


稲垣えみ子氏による連載50回目です。

ある日の新聞を見れば、私から見れば使い捨て社会の主要メンバーにも思えるコンビニ各社ですら、使い捨てプラからの脱却を図っているそうである。

プラスチックのストローとかフォークとかスプーンとかを、植物性由来の素材を配合したり、軽量化したり、一部の店では木製にしたりすることで、使用するプラスチックの量を減らしているそうな……いやね、大変申し訳ないが、そもそもストローもフォークも使わない(飲み物は容器から直接飲むし、何かを食べるときは箸一択)私としては「手ぬるい」感じがしないわけではない。

とはいえ、今や現代日本文化の象徴とも言えるコンビニの影響力を考えればやらないよりやったほうがずっといいことには違いなく、その決断に敬意を表するとともに、さらなる進化を心より期待したいところであります。

それはさておき。

今回は「使い捨て」ということについて、もう少し突っ込んだ話を書かせていただきたく思う。

使い捨てといえば、誰でもパッと思い浮かべるのは前述のような「使い捨て製品」であろう。そもそも長く使うことなど想定していない製品。今ここにある弁当を食べる瞬間など「一瞬」だけピンポイントで活躍していただき、あとはポイということを前提として作られている製品。これまで書いてきたラップとかティッシュとかのいわゆる「消耗品」の類も、この範疇に入れていいかと思う。

でもですね、よくよく考えると、本当に考えなきゃいけないのはここじゃないんじゃないでしょうか。

今やわれわれの身の回りのものは、その実に多くが、というかもはやそのほとんどが「消耗品」「使い捨て」になっているんじゃないだろうか?

例えば、洋服、家電製品、車などは、古くなったら「買い替える」のがもはや当たり前である。それだけじゃない。時計や宝飾品などの、昔ならデパートの上のほうの階でうやうやしく売られていたものだってそうだ。

新しくてイケてる製品が出れば今使っているものはポイ。いやポイとせずとも、新しいものを手に入れれば古いものの出番は当然なくなり、そのうちどこぞの「家庭内エアポケット」にすっぽりと収まってその存在も忘れられていく。要するに実質的にはポイ捨てと何ら変わることのない扱いを受けるのである。

一昔前はこんなことはなかったのだ。着物や時計や万年筆などの高価なものは親が使っていたものを子が引き継ぐのは当たり前だったし、そもそも家電製品とか車みたいなフクザツな製品はなかったから、具合が悪くなったり流行遅れになったりすることもそうなかったに違いない。

そう考えると、現代とはプラスチックのストローとかフォークとかだけじゃなく、もっとでかくて頑丈な、あるいは小さくともキラリと光る宝石のようなありとあらゆるものも含めて「使い捨て」る社会なのである。言い方を変えれば、この「使い捨て」文化そのものが経済の原動力、つまりはわれらが社会をここまで成長させてきたエンジンなのだ。

昔はモノを長く大事に使っていた

そう考えると、「環境に優しい」社会なんてフンワリ言うのは簡単ですが、それを本当に実現しようと思ったら現代資本主義社会を根本から定義し直さねばならなくなる。社会がひっくり返るレベルの革命的変革だ。会社も個人も誰一人として無傷ではいられないだろう。

それだけのエネルギーがわれらにあるのかね……などと考えるとどうしたって未来は明るい気はしないわけですが、ま、そんな自分の力ではどうしようもないことをいくら考えたとて仕方がないのであって、ここで私が本当に言いたいのはそういうことではない。

私が言いたかったのは、この、今や常識となっている「使い捨て社会」は、日本の長い歴史から見れば、実はごく最近生まれた新奇なトレンド、ポッと出のニワカ常識に過ぎないということだ。われらが偉大なる祖先は、そんなことなどまったく常識でもなんでもない社会で長いあいだしっかりと生き延びてきたということを、今こそ多くの人が思い出すべきではないだろうか?

え、なんで今更そんな辛気臭いことを思い出さなきゃいかんのかって?

それはもちろん地球環境を守るため……ではない。いや結果として地球環境を守ることは疑いないし、そうなれば実に素晴らしいことだが、それはあくまで結果であって、われらがまず見据えるべきはもっと身近な個人的問題、すなわち「今ここにある人生の危機」である。

改めて考えてみてほしい。あなたは今の人生に十分満足しているだろうか。すなわち欲しいものが十分手に入り、さらにはこれから死ぬまでの将来の不安もなく、いついかなる時も心安らかに満ち足りた一瞬一瞬を過ごすことができていると言い切れるだろうか?

言い切れるなら、それでよし。別にシケた昔のことなんぞ何も思い出さなくたって構わない。そのまま今の感じで生きていったところで、誰に文句を言われる筋合いもないと私は思う。

でも、こと私のことで言えば、全然そうは言い切れなかったわけです。

若い時は頑張って金を稼げば人生安泰と単純に考えてたが、人生も後半戦に入ってくるとこれから先の長い老後のことが心配で心配で! 

だって人生100年時代ですよ! いくら貯めたって足りないヨどう考えても。なのに、私ってば50歳でうっかり早期退職して一気に無給生活。将来どころか一瞬先がヤミである。となれば考えることは一つで、まずは金を節約しなけりゃどうにもならない。

ってことで当然私が考えたのは「とりあえずは今あるもので何とかやっていかねば」ということでありました。買い替えなんて贅沢なことやってる場合じゃない。そうムカシの日本人のごとく「ものを大切に、長くつかう」。

……いやこう改めて書くと、なんだか本当にレトロな一言である。セピア色な感じ。実に懐かしい。私が子供の頃(半世紀前)は、このようなことは当たり前の道徳として、人類普遍の善行のように言われてきたってことをたった今思い出した。

「使い捨て」を「使い切る」に変えてみる

でもまさしく今は昔であります。若い方々はもしかしてこんな言葉、見たことも聞いたこともないんじゃないだろうか? だってさっきも書いたけれど、このような道徳は現代の経済活動にとっては敵以外の何物でもない。

「贅沢は敵」(戦時中のキャッチコピー)ではなくて「贅沢は素敵」なのだ。ちなみに後者はバブル期のコピーで当時は非常に新鮮だったが、今はあまりにも当たり前になってしまってもう誰も覚えておらんという事実もまた恐ろしい。

あ、つい興奮して話が脇に逸れてしまったが、いずれにせよ、そんな贅沢な現代においてワタクシはただ一人、個人的な切羽詰まった事情に迫られて、そのような古臭い、カビの生えた道徳をどっこいしょと引っ張り出してきたわけです。

これからは、古びてこようが流行遅れになろうがガマンガマン。当然しみったれた暮らしにはなろうが、生きていくためにはそんなことをゴチャゴチャ言うている場合ではない。

ってことで、バブルの価値観がなんだかんだ言って身についているわが人生において、実に新鮮なチャレンジが始まったのであった。これからは、今あるものをできるだけ長く使う。必要に迫られた時、すなわち壊れたり破れたりして使えなくなった時に初めて買い替えるのである。

このチャレンジを別の言葉で言うと、ものを「使い切る」ということになる。

使い切る……。

いやつい簡単に書いたが、これは案外、というかちっとも簡単なことではないのだよ。

何しろですね、よく考えたら、私は人生において何かを「使い切った」経験などほとんどなかったのであった。使い切るといえば、最初に書いた消耗品の類、ティッシュとか歯磨き粉とか、そういうものを使い切ったことはもちろんありますよ。でもそうじゃないものに関しては、まさに使い切る前にことごとく「買い替えて」いた。壊れるまで使うなんていう体験はほぼゼロと言っていい。

どの時点で「使い切った」と判断する?

となるとですね、新たなモンダイとして浮上してきたのは、いったいどの時点をもって「使い切った」と判断すればいいのかということである。そう、まずここかしてわからなかったのだ。

家電なら「動かなくなった」かどうかで判断すればいいんだろうが、わが家は家電がほぼないのでそういうわかりやすいものはないのである。

じゃあ、例えば鍋とかはどう考えたらいいのかね? 鍋底のホーローがひび割れてきたらアウトなのか? それともかなり剥がれてくるまでがんばるか?……などとあれこれ考えていた時、私は偶然、偉大なる「師匠」に出会ったのでありました。

それは、近所にあったパン屋さん。しょっちゅう通っているうちにすっかり仲良くなり、スタッフと一緒にまかないを食べたりする仲にまでなっておりまして、で、ふと気づけばこのスタッフたちの「捨てない」度合いがすごすぎるんである。

「求めよ、さらば与えられん」とはよく言ったもので、何かの解決策を探していると、これまで見えていなかったものが突然くっきりと見えてくる。で、まさに私、刮目したね。あなたたち、よく見たらめちゃくちゃスーパーすぎるよ!

見るもの見るもの、目からウロコの連続であった。

例えばまかない用の古びたスープ鍋。フタのつまみはとっくの昔に取れてしまったらしく、かつてつまみが付いていた穴に針金をうまいこと通して、ワインのコルクをつまみ代わりにくくりつけて使っているのである。

例えばガラス製のコーヒーポット。こちらはプラスティックの取っ手が割れてもげてしまったらしく、今や取っ手のないフラスコのような入れ物と化している。でもそんなことは誰もモノともせず、鍋つかみでむんずと掴んで普通に使っている。

いや……私は心底驚いてしまった。だってもし私ならデスよ、鍋の蓋のつまみばポロリと取れたら、あるいはポットの取っ手が割れてしまったら、そこまで長く大事にそれを使い続けた自分を間違いなく褒めるところだ。むしろ「ちゃんと使い切った!」と自慢するところである。で、堂々と新しい品を買うにちがいない。

でもここではそうじゃないのだ。そのくらいではまだ壊れたということにはならない。まだまだ使えるという認識なんである。じゃあいったいどの時点で「壊れた」「もうだめだ」と認定するんですかね?

「うーん、底に穴が開いたら、ですかね……」

えー、そ、そこまで……? しかし確かに底に穴が開いてしまったら、もうどうやっても鍋やポットとして使うことはできない。つまりはそれはもう鍋でもポットでもない。鍋あるいはポットとしてのアイデンティティーが失われた瞬間である。なるほど確かに、その時点をもってして「壊れた」と認定するというのは実にシンプルで合理的な意見のように思えた。

「使い切る」ことでどんどん「おしゃれ」になる

そうか。そのように考えればいいのだな。

さらに私にとってものすごく重要だったのは、そういう彼らが、そして彼らが修理しまくって使い続けているふるびたモノたちが、無性にかっこよく見えたということである。

何しろその鍋だのポットだのは、どこぞのブランド品でもなんでもなく、誰かの結婚式で引き出物としてもらっちゃったもののどうも趣味も合わないんだよな……とつい棚の奥にホッタラカシにしてしまうような、どちらかといえば安っぽい、花柄とかの、つまりはごくフツーのものばかり。

でもそれが、こうして直しながらナガ〜く使われていることで、なんかものすごく「いい感じ」になっているのである。めちゃくちゃおしゃれなんである。

ってことに気づいた時、私の心を覆っていたモヤモヤはサーっと晴れたのであった。

「物を使い切る」って、我慢しなきゃいけないことでも、辛気臭いことでもなんでもないんじゃないだろうか? 

っつーか逆に、どんな平凡なもの、どうってことないものも、「使い切る」ことでどんどんかっこよく、おしゃれになっていくんじゃないだろうか? 

っつーかむしろ彼らのかっこよさを前にしては、使い切りもしないうちに、ただ「飽きた」とかいう理由で、あるいは何かの宣伝とか甘言とかに目を奪わて、安易に買い替えるっていう行為そのものがえらくダサいことに思えてきたのだ。

このようなマインドセットの書き換えに成功すれば、もはや物事は成功したも同然である。私はもう何の迷いもなく、嬉々として「今あるものを使い切る」行為に邁進したのでありました。

で、結論から申し上げる。

これをやりだしたらですね、もうまったく「捨てる」というタイミングがいつまでたっても訪れないことに驚かずにはいられないのであった。毎日使っているわが鍋の底も、表面は剥がれてきているが穴が開くとなれば多分50年後くらい先な感じである。その時、私はもう生きていない可能性が高い。

ことほど左様に、わが身の回りのほとんどのものは、どう考えても死ぬまで使い続けるに違いないということがたちまち判明したのであります。

それほどまでに、ものを「使い切る」のは大変なことなのである。ほぼ不可能なプロジェクトと言ってもいい。

例えば、棚やベッドやちゃぶ台などの家具はもう絶対死ぬまで添い遂げること確定だし、台所の調理道具類、鍋、包丁も然り。箸や皿などの食器類も同様である。着るものは日々着まくっていればボロボロになってはくるが、それでも修理しながら着ていけば10年20年は軽くもちそうである。

今あるものと生涯をともに過ごす

ってことは、私はこの、ワンルームの部屋で今見えているすべてのものと、おそらく生涯をともに過ごすのだ、つまりは、もう生涯これらのものを「買う」必要はまったくないのだということに気づかざるをえないのであった。

もちろん、どうしても消耗してしまうものもある。

例えば食器を拭く布巾。長く使っていれば汚れがひどくなってくるので、そうなったら折りたたんでチクチク手縫いをして雑巾にする。しかしこの雑巾が非常に丈夫で、多少破れたところで例の「パン屋方式」で言えばまだまだ十分使えるので、2年ほど経ってようやく「使い切り」に成功してお役御免となる。ってことは、ここから逆算して新しい布巾をおろすのは2年に1度。消耗と言っても誠に気の長い話である。

例えばタオル。私が常時所有するタオルはフェイスタオル1枚で、顔を拭き手を拭き最後は銭湯で体を洗い体を拭いて、洗濯して干して翌日また使うという方式を採用しているのだが、ここまでやっても半年〜1年は余裕でもつ。現代のタオルとは誠に丈夫にできているのであり、使い切るのは本当に大変なことなんである。

つまりはこれがどういうことかと言いますと、たとえ100年生きることになったとしても、これから私が生きていくために買わなきゃいけないものなんて本当に少ない、っていうか、ほとんどないんだってことが具体的にわからずにはいられないのである。

ってことで、私が今後買わなきゃいけない物リストは以下の通りであることが判明した。

・食材(1日約500円)
・カセットコンロ用ガスボンベ(1週間に100円)
・掃除用のクエン酸と重曹(1年に約1000円)
・洗濯用の石鹸(1年に約1000円)
・美容用ゴマ油(1カ月に約500円)
・マッチ(1年に約200円)
・火鉢用の炭(1年に約1500円)
・下着や靴下など(1年に約2万円)

以上である。すべてをならしてひと月あたりに計算し直すと、約2万円であることがわかった。

いやーこうして書き出してみると、改めてこの少なさに愕然とせずにいられない。当コラムではもう耳タコに「生きていくのに必要なものなんてほんのちょっと」と書かせていただいているが、その実態とはこのようなことである。

もちろん、これは私の場合なので万人がこうであるはずもないが、いずれにせよ誰でも「ものを使い切る」ことさえ実行すれば、このように「いったい自分がこれから死ぬまでにいかほどの買い物が必要であるか」ということがハッキリとわかるのである。

そしてそれは必ずや、あなたが考えているよりもずーっとずーっと少ないに違いない。つまりはほとんどの現代人は「今あるもの」だけで、少なくとも数十年は余裕で生きていけるはずなのだ。

そうとわかれば、実態のハッキリしない老後不安に怯える必要などない。何がもったいないって、貴重な人生の時間を、正体のハッキリしない不安に覆いつくされてしまうことである。不安とは正体がハッキリしないからこそ不安なのであって、まずその正体を見極めなければ始まらない。

そのためにはまず、自分に本当に必要なものは何かをちゃんと把握することだ。そしてそのためには、「ものを使い切る」という発想を人生に組み入れなければならない。

これなくしては、つまりはその時の気分に流されてなんとなく「買い替え」ていくようなことを漫然と繰り返していては、底に穴の開いたバケツに水をためようとするようなもので、水は入れても入れても永遠にたまらないばかりか、その水がたまらないという恐怖から生涯逃れられずに生き続けるという、どう考えてもつらすぎる人生確定である。

「使い切る」暮らしの超デッカイおまけ

あともう一つ。

私はこの「使い切る」暮らしで手に入れたのは、「もうこれで十分という満たされたオシャレな(自称)暮らし」&「老後不安の解消」だけではない。それだけでも十分凄いと思うけど、さらに超デッカイおまけが付いてきたのだ。

私は、圧倒的な時間とエネルギーを手に入れた。

買い替えをしないということを決めてしまえば、あらゆるコマーシャルに対する興味は一気にゼロとならざるをえない。となれば当然、あれを買おうかこれを買おうかという悩みや迷いに使う時間もエネルギーも一気にゼロとなる。

これがいかに大きなことか、私は自分が実際にやってみて初めてわかりました。逆に言えば、これまで私は人生の信じられないほどのたくさんの、というか人生のほぼほとんどの時間とエネルギーを「買い物」に関することに無限につぎ込んできたのである。

これが一気になくなった今、私は有り余る自由な時間を、ピアノを弾き、書を習い、本を読み、気の合う友人と会い、お気に入りの散歩道を歩き、銭湯にゆったりと浸かる……という王侯貴族のごときキラキラした暮らしに心置きなく使っている。

こんな暮らしをするために必要なのは「お金」だとずっと信じていた。そのために必死に稼がねばと信じていた。

でもそうじゃなかったのだ。必要だったのは時間とエネルギーだったのである。そしてそれは「買わない」ことによって一気にわが手中に転がり込んできたのだ。

いやはやなんということでしょう!

(稲垣 えみ子 : フリーランサー)