桜庭和志「グレイシー一族撃破」から20年(2)

 90分に渡る死闘として語り継がれる「伝説の桜庭和志vsホイス・グレイシー戦」から、今年の5月1日で20年が経つ。

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桜庭和志の「グレイシー狩り」はホイラー戦の勝利から始まった

 両者がエントリーした『PRIDE GP 2000』は、PRIDEが初めて開催した無差別級トーナメント。まず、2000年1月30日に行なわれた1回戦で、桜庭は消化不良の試合放棄という形でガイ・メッツァーに勝利した。

 一方、ホイスは桜庭の師匠である高田延彦と対戦。高田は積極的に攻撃にいけず、ホイスが判定勝利を収めた。

 当時勤めていた出版社から「何か本になりそうな企画を出せ」と言われていた私は、桜庭もホイスも1回戦が”不発”に終わったこともあり、次の2回戦で両者が激突するという機運の高まりを感じた。

 2回戦の組み合わせはファン投票で決定される。「桜庭vsホイス」の実現は必至だろう。

 しかも、2回戦が行なわれるのは約3カ月後の5月1日。そこで私は「桜庭和志の自伝」の企画書を書いて社長に提出した。


 すると、社長の反応は「桜庭って誰?」だった。過去何冊かプロレスの本を出版したことのある出版社の社長でもわからない、当時の桜庭の知名度は正直、それくらいだった。

 しかし、PRIDE人気はジワジワと高まってきていたし、桜庭のキャラクターはむしろ、桜庭のことをよく知らない人にこそ響く。当時、桜庭を初めて見た人は、たいてい「こんな普通のお兄ちゃんみたいな人が強いの?」みたいに思ったのではないだろうか。

 だからこそ、この桜庭という人物がどういう人生を歩んできたのか、普段どんなことを考えているのかに読者は興味が沸くと考えた。こんな普通のお兄ちゃんみたいな人があのホイス・グレイシーに勝つようなことになったら、まさに痛快ではないか。

 そういう”期待値”込みの企画に社長からGOサインをもらった私は、当時桜庭が所属する高田道場にこの話を持っていった。さすがに、すでにそういった話は大手を含めたいくつかの出版社から来ていたが、すべては「ホイス戦後の発売」を想定したものだった。


 だが、私は違った。

『PRIDE GP 2000』1回戦が行なわれた東京ドームで実際に感じた「桜庭ならホイスに勝てるんじゃないか」という空気に絶対的な自信を持っていたこともあり、「だったら、ホイス戦まで3カ月ありますから、ホイス戦の前に発売しましょう!」と提案。

 これは、桜庭の勝利を信じて疑わないという意味でも、我ながらパンチ力のある提案だったと思う。

 すると、高田道場側から”条件付き”でGOサインが出た。その条件とは、桜庭はプロレスラーであり、文章を書くプロではないので、気心の知れたライターさんに執筆をサポートしてもらうこと。それならば、練習の合間に気持ちを整理する意味でもやれるだろう、ということだった。

 私が勤めていたのは小さな出版社だったため、その条件に対して即断即決で返事ができたのも強かった。私はまず、高田道場側から紹介してもらったプロレス・格闘専門誌の編集長に、桜庭自伝の執筆サポートを打診した。


 しかし、編集長からの返答は「できない」。その編集長は遅筆で有名だったこともあり、自分がやっても締め切りを守れないから、おそらく桜庭が書いた原稿のまま、出版化されてしまうだろうとのこと。さすがにそれは、桜庭にも読者にも申し訳ない。

 次に、桜庭がUWFインターナショナルの頃からよく取材をしていて、プロレス専門誌で活躍するフリーライターの方に打診した。すると幸いにも快く承諾していただき、無事に桜庭の自伝は制作されることが決定した。

 ファン投票の結果、5月1日の2回戦で「桜庭vsホイス」が行なわれることも正式に決定。私は武蔵小山にある高田道場に通い、練習後の桜庭から書き上がった原稿を受け取り、ライターさんは読みながらその場で桜庭に補足する部分などを聞き、原稿の完成度を上げていくという作業が続いた。

 最初は執筆作業が苦手そうだった桜庭だが、ルーティンになってしまえばかなり順調だった。ところが、いざ試合が近づいていき、自伝の完成も見えてきたところで、思わぬ邪魔をしてくる者が現れた。


 そう、グレイシーだ。

「2回戦および準決勝は1ラウンド15分の無制限ラウンド」
「決勝戦は1ラウンド20分の無制限ラウンド」
「判定決着はなし」
「試合はホイス本人がタップするか、セコンドがタオルを投げた場合のみストップ。つまりレフェリーストップはなし」

 グレイシー陣営が突然、上記の「特別ルールをホイスの試合にかぎり採用しろ。採用しないのならホイスはGP出場をキャンセルする」と言い出したのだ。

 このホイス陣営の一方的な愚行に、桜庭は明らかに苛ついた。

『PRIDE GP 2000』はただでさえヘビー級もミドル級もごちゃ混ぜのトーナメントだ。すでに「15分1本勝負の判定ありルールでやりましょう」と決まって、それで1回戦も終わっているのに、なぜ今さらそんなことを言い出すのか。

それでも、桜庭は「だったら1週間戦ってやる」と言い返して無制限ラウンドを了承。「6日間痛めつけて、7日目で倒す」と宣言した桜庭は、オムツをしながら試合をすると言い放ち、ホイス陣営を挑発した。


 それまでの総合格闘技は、どうしても「寝技が地味」というイメージがあった。だが、このような丁々発止のやり取りや絵に描いたような勧善懲悪の図式は、一般メディアでも取り上げやすいキャッチーさがあった。

 また、当時あまり”売り”がなかったPRIDEとしても、ここぞとばかりに桜庭のキャラを猛プッシュ。その結果、メディアへの露出やマスコミからの取材も山のように増えていったのだが、もともと面倒くさがりの桜庭は、そのストレスをホイス戦にぶつけようとモチベーションに変えていった。

 桜庭はそんな忙しい合間を縫って、キッチリと自伝を書き上げてくれた。書名は『ぼく。』に決定。これは桜庭とライターさんが話をしている時、桜庭が自分のことを「ぼく」と言うのがすごく印象的だったからだ。

 プロレスラーが自分のことを指す一人称は、たいていが「おれ」だ。だが、「ぼく」はふんわりした桜庭のイメージにもバッチリ合ったし、インパクトもあった。

 急ピッチで制作を進めた結果、初の自伝『ぼく。』は、桜庭vsホイスが行なわれる2000年5月1日に東京ドーム付近の書店で先行発売されることになった。これで、完全に舞台は整った。

(第3回につづく)