漢方のツムラは今年125周年を迎えました(写真:ツムラ提供)

医療用漢方製剤で8割のシェアを誇るツムラは、今年で創業125周年を迎えた。近代化が始まる激動の明治時代からツムラはどのように「漢方の復権」に尽力してきたのか。その秘密に迫る。


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ツムラの創業は1893年(明治26年)。初代・津村重舎が奈良にある母方の実家に代々伝わる婦人和漢薬「中将湯」を商品化し、東京・日本橋で津村順天堂を興したのが始まりだ。

明治に入ってからの日本は“散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする”ともいわれたように、江戸から明治へと移り変わるなかで多くの風習に変化が生まれた。

西洋医学が中心に据えられ漢方が衰退

この動きは医学にもみられ、それまでは西洋医学を学んだ蘭方医と漢方医が併存していたが、新政府は医学の中心に西洋医学(ドイツ医学)を据えた。1895年(明治28年)に帝国議会で「漢医継続願」が否決されると、漢方は一気に衰退。津村順天堂の創業からわずか2年後のことだった。創業者である初代津村重舎は漢方医と連携しながら、「漢方の復権」に全力を尽くしていくこととなる。


1907年(明治40年)改築後の津村順天堂本店(写真:ツムラ提供)

さまざまな広告を打った重舎が、日本で初めて実施したといわれるのが胃腸薬の販売記念の新聞広告につけた懸賞だ。

重舎は、「中将湯」の薬効に自信を持っていたものの、世に広めるためには宣伝が重要と考えた。ガスイルミネーションやアドバルーン、電気式点滅看板など、当時としては珍しい宣伝方法を次から次へと実践していく。

派手なPR活動の一方で、漢方の復権にも心血を注いだ。1924年(大正13年)には薬用植物の研究と普及を目的に「津村研究所」を発足。

また、薬用植物の栽培や品質改良の研究をするため「津村薬草園」も開設した。昭和に入り、津村順天堂を株式会社とし、将来の発展のため事業としてもその足場を固めていった。

漢方に対する逆風が色濃く表れる時代のなか、一定の知名度と基盤を確立した津村順天堂だったが、その先頭に立って歩んできた重舎が1941年(昭和16年)に死去。息子である2代目重舎が継いだものの、直後に太平洋戦争が勃発。空襲により本社は焼失し、津村順天堂は存続の危機に瀕することとなる。

戦後、日本全国で何もかもが不足するなか、再び津村順天堂を復活させるべく2代目重舎はすぐに動き始める。「津村順天堂の名を日本橋から消してはならぬ」と事業を再開した。終戦から7年後の1952年(昭和27年)、日本橋に新本社ビルを完成させると、その後の高度経済成長による内風呂の普及も相まって入浴剤バスクリンがヒットするなど、業績を順調に伸ばしていく。


創業時から販売している「中将湯」(写真:ツムラ提供)

また、漢方の復権への取り組みも着実に進め、本社ビルに漢方診療所を開設。1976年(昭和51年)には津村順天堂の医療用漢方製剤33処方が薬価基準に収載されたことで、健康保険適用薬として医療現場で使われるようになり、漢方の復権を成し遂げた。

戦後の苦難から復活を遂げ、1982年(昭和57年)には東証1部上場し、名実ともに一流企業の仲間入りをした。

事業の多角化で業績が悪化

バスクリンの人気とその宣伝効果から“バスクリンの津村順天堂”というイメージが定着していた当時のツムラ。漢方を原点とし最先端の技術を使った総合健康産業を目指し、創業から95年目の1988年(昭和63年)、社名を津村順天堂からツムラへ、シンボルマークも変え新たなスタートを切った。

しかし1990年代に入り、1980年代後半に進めた急速な事業の多角化が、ツムラの財務を著しく悪化させることとなる。1992年3月期には売上高1375億円、純損失32億円(前1991年3月期は純利益5.8億円)の赤字に転落し、その後3期連続で純損失を計上した。危機を脱すべく、第一製薬(現・第一三共)の常務取締役を務めていた創業家の縁戚にあたる風間八左衛門氏を1995年に社長として迎え、経営改善に着手した。


漢方の原料となる生薬(写真:ツムラ提供)

だが、その直後に医療用漢方製剤で副作用が起きたという報道が出て、状況はさらに悪化。かつてない窮地に追い込まれていく。

2001年3月期には売上高738億円、純損失194億円の過去最大の赤字を計上した。「赤字と銀行借り入れ過多が重なり、当時はもう一歩で債務超過というところまで来ていた」(加藤照和現・社長)。

経営危機から脱却するため、まず行ったのが子会社整理と売り上げを超える有利子負債の圧縮であった。当時のツムラは、漢方製剤とバスクリン以外に化粧品や美術品の輸入販売など子会社事業は多岐にわたっていた。加藤社長も当時、こうした事業の整理・清算に携わり、「相当な痛みを伴う改革だった」と当時を振り返る。

また、副作用が起きたという報道が拡大してしまったのは「漢方薬には副作用がない」という誤った認識が広く浸透していたことが大きいと考え、医師への情報提供を強化。漢方医学を初めて学ぶ医師を対象にした入門セミナーの開催や、大学の医学教育において漢方のカリキュラムが拡充されたことも医療用漢方製剤の普及につながり、その後の売り上げ拡大の一助となった。

その後、風間氏と共に第一製薬から転身した芳井順一氏が後継の社長に就任。漢方薬のエビデンスを確立する取り組みなどにより、使用する医師が増え業績は順調に伸長。2004年3月期には売上高821億5500万円、純利益84億円にまで回復、6年ぶりに復配を実現することとなった。

医療用漢方製剤のシェアは8割超

現在の加藤照和氏が6代目社長として就任したのは2012年。就任時に「“KAMPO”で人々の健康に寄与する価値創造企業を目指して」という長期経営ビジョンを掲げ、これまで通り漢方事業を軸としながらもアメリカや中国での新規ビジネスも視野に入れた。

「第一は日本国内の事業」(加藤社長)という前提のもと、原料生薬の最大の調達国であり、漢方と起源を同じくする中国の伝統医学「中医学」でもツムラの技術やノウハウを活用する新規事業に踏み出した。


加藤照和(かとう てるかず)/ツムラ社長。1986年同社入社。ツムラUSA社長や広報部長などを経て、2012年から現職(撮影:的場弘路)

加藤社長は「創業当時、製薬会社は製品名をそのまま屋号にすることが多かったが、当社は中将湯本舗津村順天堂という看板を掲げた。

順天とは、『天に順(したが)う』という意味で、孟子の教えに由来すると思われる。『自然と健康を科学する』という経営理念のもと、“順天”に込められた、自然の理法に謙虚に向き合う姿勢を守りながら、患者さんに安心して使っていただける『良薬』を供給し続けたい」と話す。

奈良から上京した青年が興した津村順天堂は、創業から125年が経過した今、誰もが知る大企業へと変貌を遂げた。医療用漢方製剤に限れば、ツムラの市場シェアは現在80%を超える。

これは医療用漢方製剤の販売を始めてから40年超、途中経営危機に陥りながらも高品質な製剤の提供にこだわり続けた結果といえる。

西洋医学との融合が求められるなか、今後漢方にどのような価値が付与されていくか。ツムラの研究による新たな発見こそが、漢方製剤の新たな価値を作っていくともいえるだろう。