提供:週刊実話

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 放埓な悪役ファイトで長きにわたり日本マット界を震撼させてきたタイガー・ジェット・シン。
 観客席にまでなだれ込みサーベルを振り回す、その型にはまらない試合ぶりは、ライバルのアントニオ猪木にも多大な影響を与えることになった。
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 日本マット界における歴代“最凶”外国人といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーかタイガー・ジェット・シンのいずれかということになるだろう。

 機械的に反則を繰り返すブッチャーと予測不能のシン。前者が静なら後者は動。凶悪という点では一致しながらも、その個性は両極でいずれも甲乙付け難い。

 「一般的には“観客から人気のあったブッチャーと観客に怖がられたシン”という評価もありますが、ブッチャーの人気が高まったのは、モデルになったマンガ『愛しのボッチャー』の連載が少年マガジンで始まって以降のこと。ファンクスとの抗争の頃は完全なる嫌われ者でしたから、一概に“人気者”とするのは正確ではない。それよりも両者の大きな違いとしては、アメリカ仕込みか否かという点が大きいのではないか」(プロレスライター)

 シンが初来日に臨んでヒールに転向したというのはよく知られたところで、それ以前はカナダのトロント地区でベビーフェイスとして活躍していた。

 「デビュー直後はヒールでしたが、トロントにはインド系移民が多かったため、ヒールらしからぬ人気があったようで、程なくベビーターンしています」(同)

 しかし、人気といってもあくまでも地元限定で、日本ではまったく無名の存在だった。そこで新日本プロレスへの参戦時に、心機一転ヒールを志したのだ。そして、ヒール体験が希薄だったことは、自由な発想による新たなヒール像を創出することにつながった。

 「新日に送られた最初のプロフィル写真がナイフをくわえたもので、それを見た猪木がナイフをサーベルに変更させたという有名なエピソードがありますが、そもそもナイフをくわえるという発想が異端そのもの。実際の試合でナイフを凶器に使えば、生き死にの問題となり明らかに既存のプロレスの範ちゅうを越える。それをアピールするのは、本職のヒールにはない感覚でしょう」(同)

 本来は武器であるはずのサーベル(正確にはフェンシング・サーベル)を振り回すというのも、いかにも日本式のヒール像。のちにシンは、ナイフも実際の試合で使用している。

 「70年代のアメリカでそれをやったら観客がヒートアップしすぎて、やったレスラーの身に危害が及びかねない。しかも、シンのように観客席で暴れること自体が危険な行為であり、最悪の場合、観客から刺されたり、撃たれたりということもあり得たでしょう」(同)

 1973年の新宿・伊勢丹前での猪木襲撃事件は、今では新日サイドの仕組んだアングルというのが定説とされているが、このときシンに同行した他の2人の外国人選手は、「プロレス的な乱闘のつもりで行ったのに、シンだけが本気になった」と述懐している。

 街中で流血乱闘を繰り広げることが、プロレスラーとしての仕事ではないという“常識”は、シンには通用しなかったというわけだ。

 ちなみに、この件を報じた東京スポーツ紙上で、全日本プロレスのジャイアント馬場社長や国際プロレスの吉原功社長は、「これで次の猪木vsシンは満員になる」と脱帽のコメントを寄せている。

★シンに触発され猪木も変わった
 また、そんなシンの姿勢に触発されて、猪木の方も変わっていったことは見逃せないポイントだ。

 それまでの猪木といえば、売り文句は“神様カール・ゴッチの弟子”であり、ドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界王座戦に代表されるようなテクニシャンとしての面が色濃かったが、シンとの流血抗争により、いわゆる“過激なプロレス”に目覚めることになった。