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プールサイドの選手たちの中で、一際目立つ選手がいる。こんがり焼けた肌色に、すらりと伸びた長い手足、そして誰よりも高く飛び抜けた頭――。身長193cm、リオデジャネイロオリンピック200m平泳ぎでファイナリストに残った渡辺一平だ。4月3日からの日本選手権にも出場する彼は19歳でオリンピックに初出場し、先日21歳を迎えた。競技者としては理想的な道のりを歩んできているようにみえるが、一度は水泳をやめてしまおうと思ったこともあったという。そんな彼をオリンピックに出場するトップ選手にまで押し上げくれた原動力は、様々な人との出会いと別れだった。

撮影 中村博之(PICSPORT)/動画編集 田坂友暁/取材・原稿 佐野美樹



”兄”に憧れ始めた水泳 
やがて北島康介が憧れに



ーー水泳を始めたのはいつ頃でどんなきっかけだったのですか?

僕が水泳を始めたのは8歳のときです。姉が3人いるんですが、小さい頃は男兄弟、「お兄ちゃん」に憧れていたんです。だから親戚のお兄ちゃんが水泳をやっているのをみて、僕も一緒にプールに通うようになったのがきっかけです。

ーーいくつもの種目がある中で平泳ぎを選んだのは?

僕、水泳を始めたときからずっと平泳ぎをやっているんですよ。コーチからお前の平泳ぎは良いから、平泳ぎで行けって言われたのは覚えています。その中でも大きな理由の一つとして、平泳ぎだったら練習のときに負けなかったから、っていうのがありますね。

小さい頃って、負けるのが嫌じゃないですか。僕はいつも親戚のお兄ちゃんたち世代と一緒に練習をしていたんですけど、クロールとかでは全然勝てないのに、平泳ぎでは勝てたんです。それがすごく嬉しくて。だから平泳ぎが好きだったんだと思います。



ーー他の種目に浮気したことはないんですね。

中学生のときに一度、個人メドレーに出たことはありますね。県大会で1チームに平泳ぎは2名しか出場できないことがあって、すでに先輩に2人、平泳ぎの選手がいたんです。後輩だった僕は個人メドレーも結構泳げたので、そのときは平泳ぎを断念したんですけど……浮気じゃないです! 僕は平泳ぎ一筋で、一途に頑張ってるんですよ(笑)。

ーーそれは失礼しました(笑)では、水泳を始めたときからオリンピックは目標だったりしたのですか?

オリンピックに出たい、と思いながら練習していたかといえば、そうではないですね。ただ、水泳を始めた頃に2004年のアテネオリンピックをやっていて。北島康介さんを見てやはり純粋にすごいなって思ったというか。あのとき、北島さんが負けるとは誰も思っていないですよね。絶対北島は勝つ、って言われながらレースに出て、ぶっちぎったんですよ。今思うとそのプレッシャーは想像できないですよね。

しかもそのあとに、名言となった言葉も残して(「超気持ちいい」)。そういういろんな人に応援される選手になりたいなって思ったのは覚えています。だからと言って、中学3年生くらいまではほとんど結果も出せていませんでしたし、オリンピックは現実的ではありませんでした。



”目標”を達成したそのとき、届いた幼馴染の事故の報
「そこから、水泳への気持ちが全く変わった」



ーー過去の成績を見ると、確かにスロースターターな印象があります。

そうですね。中学生のときも大会では全然決勝にも残れたことがないですし。だからではないですが、僕、中学生のときに水泳をやめようと思ったんですよ。やめるというか、一区切りというか。

中学3年生のとき、山口国体に出場することができたのですが、両親にとっては、僕に水泳をやらせるにあたって、目標が国体の出場だったらしいんです。それもあり、両親も僕も、国体に出場できたし、これで十分かなと。そんな国体の帰り道のバスで、友人が事故にあったっていう連絡を受けたんです。

ーー幼馴染だったんですか?

はい。幼稚園からずっと一緒で、親同士も交流がありました。その友達は亡くなってしまったんですけど、亡くなる前に、僕に頑張ってオリンピックまで行ってほしいっていうのをご両親に言ったらしくて。田舎だったので、国体に出るって、すごいことだったんですよ。それを友だちはすごく喜んでくれていたみたいで……。その彼の最期の言葉を親づてに聞いて、水泳に対する気持ちが全く変わったんです。

ーーどのように変わったのですか?

それまではずっと、やらされる水泳っていうんですかね。コーチとかに言われてやる水泳で。あまり自分から水泳をしたいって思ったことがなかったんです。もちろん、泳ぐのは好きだったんですが。でもその言葉を聞いた瞬間からは、自分から水泳をしたいって思いました。そいつのためにって言ったら変ですけど、そうやって応援してくれる人がいるなら、水泳を続けたいって強く思いました。だから水泳の強い、実家から通える高校を選んで進学することにしたんです。

今、こうやって水泳で結果を残せているのも、全部あいつのおかげだと思っています。



高校時代の恩師との出会い
「自由な練習を許してくれたことに感謝」



ーーその辛い別れは、渡辺選手の中ではかなり大きな水泳への力となったようですね。高校に進学してからの成長は目覚ましいです。何が変わりましたか?

とにかく、自分のために水泳をしようと思っていたので、意識は全く変わりました。高校は、かつてはインターハイ総合で4連覇を達成した、地元(大分)では名門の佐伯鶴城高校に進学しました。そうしたら、僕が入学したときと同じタイミングで下条先生という方が赴任してきて、入学式のときに「お前は全国大会の決勝とか、全国1位を狙える選手だと思ってる」って言ってくれまして。その先生の下で、かなり自由な形の練習をさせて頂いたことが、高校生のときに結果が伸びた要因の一つかなと思います。

ーー具体的にはどんな練習だったんですか?

高校生なのに大学生みたいな練習の仕方をしていたんですよ。自分が水泳をしたいから、自分に必要なことしかやらないし、自分が必要ないって思うことは練習もしない。コーチの作った練習メニューも僕が最初に見て、もっとここは増やしてほしいとか、もっとここは要らないからとか。今の大学生みたいな自分に必要な練習だけを、どんどん取り組んでいました。もちろんラクにするときもありましたし、メインの練習をきつくすることもありました。

とにかく自分が今何をすべきかってことを考えながら。もちろん、チームメイトの意見や気持ちも先生に伝えたりして、みんなで頑張れる練習っていうんですかね。

ーー例えば?

そうですね、例えば400mの練習って、長いので気持ちが折れやすくなるんですね。でも50mを8本って言ったら粘りやすい。そのほうがみんなで声を出し合って頑張れるんじゃないかって思っていて。同じことをチームメイトみんなも思っていたので、じゃあそれを取り入れよう、とかですね。



ーーなるほど。ただ結果的には、それで結果が伴ったわけですが、先生としては最初は受け入れがたいというか、面白くないところもあったりしたのでは?

いやぁ……それはあると思います。もちろん。だって基本的には下条先生が考えているメニューを、全然結果を残してない高校一年生の生徒に口出しをされて、メニューを変えられるんですから。やっぱり……快くなかった部分はあったと思います。でも下条先生も、そういうメニューを変えたときの自分の頑張りっていうのも認めてくれたりもして。

ーー先生の器の大きさがあったからこそうまく相乗効果で結果が出たということですね。

そうだと思います。僕、下条先生に怒られたことも一度もないんです。今日は体がきついから練習はいらないって言って、帰ったこともあるんですよ。でもそんなときも怒られたこともなくて、その代わり、「練習を休んだ次の日の練習の頑張りには期待してる」って言われました。

ーーすごく素敵な指導者ですね。

本当にそう思います。決して、僕以外が全員伸びたかって言われると、そうではないんですけど……今現在の大学での練習量を考えても、高校生だったらもっと基礎を作ったりだとか、色々必要だったとは思うんですけど、下条先生もすごく分かってくださって。こんな素晴らしい先生が同じタイミングで高校に赴任してきたことが、僕の20年間の人生で一番運命かなって思うくらいの出会いというか。出会うべくして出会ったのかなと思っています。今でも友だちみたいな感じで、2人で食事に行ったりもするんですよ。

憧れに勝ったとき
リオ五輪選考会での結果がむしろプレッシャーに



ーーそんな高校時代の集大成として、ジュニアオリンピックやユースオリンピックでも優勝されています。流石にその頃には「五輪」というものを意識し始めたのではないですか?

確か、2013年に東京オリンピック開催が決まったんですよね。なので、2014年のユースオリンピックに出るとなると、いろんなところから「東京オリンピック」って言われ始めたんですよ。ちょうど当時の高校生世代は、東京オリンピックを支えていく世代になるからっていうのもあって、優勝したら東京、東京ってすごい周りから言われて、流石に意識するようになりました。でもまさか自分が大学2年のときにリオに出られるとは思ってもなかったですね。



ーー早稲田大学に進学し、自分を取り巻く水泳の環境は、だいぶ変わりましたか?

まず早稲田大学に入って、先輩に中村克さん(自由形)、瀬戸大也さん(個人メドレー)、坂井聖人さん(バタフライ)という、この常に代表に入るメンバーと練習を共にして、日本代表を目指し始めたっていうのが、第一に大きく変わったことですね。多分、こんなすごい人たちと一緒に練習していなかったら、リオに出たいってそんなに強く思っていなかったと思います。ずっとみんなで練習をして、絶対みんなでリオに行くんだっていうのを……励まし合いながら練習していました。

正直なところ、自分の気持ち的には(五輪に)いけるのは五分五分ぐらいかなって思ったりもしていたんですけど……でも練習中は絶対リオに行ってやるんだっていう気持ちを持ちながらずっと練習していました。

ーー確かにそうそうたるメンバーがチームメイトになったわけですよね。やはり、トップクラスの先輩たちの影響は大きいですか?

大きいです。周りの先輩が皆、すごいレベルの高いタイムで練習していて、こんなに速いんだって驚きました。それもあってか、大学に入って最初の頃は、ちょっと自信を無くしたんです。僕は今まで練習であまり負けたこともなかったんですけど、先輩方と勝負して……負けまして。こんなにコテンパンにやられてしまうんだと。

しかもそれだけ強い選手なのに、坂井さんとかは練習では、どれだけ調子が悪くても、その日できる最大限のことをするんですよ。決してタイムは良くなくても、今日できる最高のパフォーマンスを、っていうのを毎日心がけてやっているので……そういう先輩方と一緒に練習をする環境にあるっていうのは、今の僕を作ってくれているんだ思います。

ーー数年前までは出場するとは思ってもみなかった、誰もが憧れるリオオリンピックに出場しました。

まず代表を決めたときに、代表選考の会場全体が北島さんの応援一色だったんですよ。日本中が北島さんの泳ぎに注目して、北島さんに勝って欲しい、って思いながらレースを見ていて。だから僕にとっては完全なアウェイ状態というか(笑)。

レースを終えて、夢であったオリンピック出場を決められたっていう嬉しさはもちろんあったんですけど、それ以上に北島さんや立石さんを差し置いてメンバーに入っているというプレッシャーの方が……大きかったですね。一緒に代表を決めた小関(也朱篤)さんは実力者ですが、この2番目の渡辺って誰だよ、って雰囲気もあって。これはリオで絶対結果を残さないとっていう……。

ーー自分が水泳を始めた頃からの憧れだった人を破って決めたわけですよね。

一緒に勝負して勝てたっていうのは、水泳を始めたときから思えば、自分の成長を感じられたっていうのはありました。でも……代表権を獲得して、すごく辛かったです、あのときは(笑)。思うとオリンピック本番よりもはるかに緊張したレースでしたね。そしてそのあとのオリンピックまでの4ヶ月は本当に死に物狂いで練習しました。絶対、結果を残さないとっていう気持ちがあったので。だから当時の僕にとってオリンピックは、「北島さんを抑えて代表権を獲得する以上、結果を残さないといけない試合」という位置づけでした。

自分を超える。
そう考えなければ東京五輪での金メダルはない



ーーしかしオリンピック準決勝ではオリンピックレコード2’07’22を出しました。

あれ、僕が一番ビビりましたから(笑)。本当に。あのとき、もちろんいい練習も積めていましたし、自己ベストが出るっていう確信はあったんですけど、まさかここまで行くとは。誰よりも自分が一番驚いていたと思います。

ーーこの調子で決勝もいけるんじゃないかと思うんですか?決勝に向けての気持ちってどんな感じなんですか?

決勝いけるだろうっていう若干の甘えと、その2’07’22っていうタイムに、恐らく心のどこかで満足してしまったんです……。当時の世界記録があと0.21秒なので、そのときに世界記録を目指して決勝の舞台に臨んでいたら、もうちょっと結果は変わったかもしれない。でもそのタイムに満足して、あんまりそこから上を目指そうとしなかったんですよ。そういう意識が薄れたというか。目標達成しちゃったっていう。



ーーそれは急に燃え尽きたみたいな感じになったということですか?

いやぁ……そうだと思います。正直なところ。このタイムで決勝の舞台を泳げたら、優勝、もしくはメダルは獲れるだろうって気持ちがチラついたんだと思います。だから僕、決勝のときも、準決勝と同じようなことをしたんですよ。2’07’22を出すために、同じような時間帯にプール入りをして、同じようなアップをして、同じようなドライトレーニングをして。でもその状態の中では、もう準決勝を超えることってできないんですよ。

ーーゲンを担ぐという意味ではいいことではないんですか?

いいように感じるかもしれないですけど、でも、間違いなく疲れはあるわけじゃないですか。なのに、準決勝と同じことをしている。気持ち的に、準決勝と同じようにアップをすれば大丈夫っていう自分の甘えがあったんですよ。これ以上、準決勝のタイムを超えてやろうっていう気持ちがあれば、もう少し何か変えたと思うんです。だから、同じことをしようと思った時点で、もう僕はメダルを獲れなかったんですよ。

ーー難しいですね……。

はい。でも簡単に言ったら、自己ベスト出したいって思っている選手と、自己ベストに近いタイムで泳ぎたいって思っている選手は、同じ実力だったら絶対自己ベスト出したいって思っている選手のほうが強いんですよ。どうやっても。そういう意味では、オリンピックで決勝を泳いだ8人のなかで、僕以外の7人はずっと実力者で、絶対優勝目指して練習をして、あのレースに臨んだと思うんです。なのに、僕は違う気持ちでレースに臨んだので、ああいう悔しい結果になってしまったんじゃないかなって、今はそう考えています。

ーー素晴らしい記録は打ち立てたのに、苦い経験になりましたね。

自分への不甲斐なさというか、情けなさというか……結果的にいうと、準決勝のタイムで優勝できていたので……日本水泳連盟的に対しても、金メダルを一つ獲れなかったという申し訳なさもありました。

ーーしかしその半年後には世界新記録2’06’6を出しています。

リオオリンピックの後に目標設定をし直して、翌年の世界水泳まで国際大会がないので、「世界新記録を出す」という目標を立てたんです。思っていたより早く実現してしまったのですが、僕の中で世界記録保持者って、自分の記録を大きい試合で超えて、どんどん記録を積み上げていくことが世界記録保持者って言えると思っていて。一度きりのタイムを出したからと言って、まだその実力はついてないと思っています。

ーーでは今後の目標は?

今の目標は、今年の夏のパンパシ(8月に東京で行われるパンパシフィック選手権)で小関さんに勝つ、っていうことを考えています。昨年は2度もとなりで勝負して、ラスト負けてしまっているので。2019の韓国の世界水泳は、オリンピックの前年としてレベルの高い、注目度の高いレースになると思っているので、その舞台でまた僕自身の世界記録を更新して、優勝したい。2020年の東京オリンピックでは僕自身の記録なので(笑)、オリンピックレコードを自分自身で塗り替えて、世界記録も自分自身で塗り替えて、ぶっちぎりで優勝したいなと考えています。



最後に、今水泳はどれくらい好きですか?と問うと、「めちゃめちゃ好きです!」とまだ少しあどけなさの残る笑顔で返してくれた渡辺選手。真っ直ぐこちらを見て、「ぶっちぎりで優勝したい」と話す姿は、かつての憧れの大先輩の姿が重なって見えた気がした。



<プロフィール>
渡辺一平(わたなべ・いっぺい)
リオデジャネイロオリンピック200m平泳ぎファイナリスト 同記録世界記録保持者
早稲田大学水泳部所属

男子200m平泳ぎ世界録ホルダー。2017年1月29日、第10回東京都選手権水泳競技大会で2分06秒67を記録した。1997年3月18日生まれ。大分県津久見市出身。津久見第一中−佐伯鶴城高−早稲田大学。高校進学後から実力を発揮し始め、国内タイトルのほか、2年時には2014南京ユースオリンピック男子200m平泳ぎ金メダルを獲得した。2015年に早大進学後は2年時に第92回日本選手権水泳競技大会決勝で2分9秒45を出して2位に。派遣標準記録も突破しリオ五輪出場権を獲得。五輪では準決勝で2分07秒22のオリンピックレコードを記録したものの、決勝では6位に。今年4月3日からの日本水泳選手権2018に出場する。