南アフリカに逆転勝ちし、白星発進した日本。韓国で開催されているU−20W杯の話だが、試合内容はもとより、勝ったか負けたかの結果以上に高い関心を集めているのが久保建英選手だ。多くの報道陣が、チームの一員に過ぎない15歳の選手に我先に迫ろうとする姿は、とても正常とは言えない。

 その結果、見逃しているものがあるとすれば、監督だ。なぜ内山篤氏なのか。指導者として特段、実績を残してきた人物ではない。協会内の事情では順番通りかも知れないが、世間的には説得力に欠ける人事だ。

 U−20は3年後にはU−23だ。2020年東京五輪を戦う年代と完全に一致する。他の競技団体のように、そこで是非メダルを、と考えるのであれば、特別なプロジェクトを編成する必要がある。少なくとも、監督問題は、真っ先に議論されるべきものになる。今回のU−20の延長上に2020年五輪チームはある。一貫した強化を図ろうとするなら、同じ人物が務めるのが常識になる。

 2020年の監督が、まさか内山篤氏というわけではないはずだ。繋がっているべきものが繋がっていない。今回のU−20と2020年の五輪チームとが、同一線上にあるチームには見えてこないのだ。

 とはいえ、サッカー協会はフランスで5月29日から開催されるトゥーロン国際大会にも、U−19を送り込んでいる。U−20W杯に参加しているメンバーとはもちろん別部隊。その予備軍的なチームになるが、選手の育成、発掘には、それなりに力を入れているように見える。

 トゥーロン国際大会に臨む監督は影山雅永氏。本来はU−18の監督だ。受け持つ年代と重なる選手もいるが、重ならない選手もいる。「人が足りないのでお願い」的な、代行色の強い場当たり的な人事だと言いたくなる。

 選手の強化も大切だが、監督はそれと同じぐらい重要なテーマだ。いい選手が数多くいても、監督のレベルが低ければ、成果は期待できない。そうした認識は、代表監督探しには見て取れる。協会内のみならず、メディア、国民の間にも、監督の重要性は常識として浸透している。 

 2020年の五輪チームに、それは適用されないのだろうか。協会が何かを宣言した形跡はいまのところない。その点を突くメディアもない。当然、ファンの反応も悪くなる。

 監督のレベルと選手のレベル。日本のサッカー界において、偏差値が高いのはどちらと言えば、選手だ。日本サッカー界をリードしているのは選手。久保建英選手と内山篤監督にも同じことが言える。久保建英選手を金の卵と騒ぐのなら、それに相応しい人物が監督として存在しないと、選手は順調に伸びていかないーーと考えるのが自然だ。その将来と、監督問題は密接にリンクしているにもかかわらず、そうした肝心な話をする人はいない。内山篤監督という協会が差し出したカードに、ハイそうですかと素直に従おうとする。 

 代表監督を、外国人監督に任せたくなる根本的な理由でもある。選手のレベルを越えた監督でないと、選手のレベルは上がらない。日本代表選手の偏差値が53なら、60を越える監督を迎えなければ、53は55、56には上がらない。2020年東京五輪でメダルを! と言うなら、それなりの人物、それこそ偏差値70近い監督を招聘する必要があるのだ。内山篤監督がそのまま持ち上がってしまえば、監督が足を引っ張る存在になりかねない。それが理屈だと思う。

 デットマール・クラマーさんを代行監督に招いたのは1964年東京五輪の4年前。おそらく当時のサッカー協会は、必死だったのだろう。従来通りの方法では惨敗する。恥を掻く。そうした危機感が、クラマーさん招聘の背景にあったと思われる。

 2002年日韓共催W杯の際も、「開催国が1次リーグで敗れた過去はない」というプレッシャーと向き合っていた。その結果、迎えた監督がトルシエだったとは、いま振り返れば笑い話になるが、当時の日本のレベルを示す典型的な事例と言っていい。

 それなりの経験を積んできたはずの日本サッカーであるにもかかわらず、今回はそれが生かされていない。学習効果を発揮することができていない。2020年東京五輪? サッカー界は力を入れていませんと言い切るなら、それはそれで格好よく映るが、入っているのか、いないのか、重視なのか、軽視なのか、見えてこないのが現状。内山篤監督は、そうした中途半端な日本サッカー界の現状を象徴する存在に映る。久保建英選手より、話題にするべきはまずこちら、だと思うのだ。