元ヤンキースのデレク・ジーター氏【写真:Getty Images】

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自身が運営するサイトでニューヨークに宛てた手紙を公開

 1995年のメジャーデビュー以来、ヤンキース一筋で20年を過ごした元主将デレク・ジーター氏。現役を退き3年目を迎えた今年、母の日にあたる14日(日本時間15日)に背番号「2」を永久欠番とするセレモニーが行われる。ヤンキースタジアムでのアストロズ戦の試合前に行われるセレモニーには、ジーター氏の家族はもちろん、かつてのチームメイトら懐かしい顔ぶれが集まると予想されている。

 引退後はモデルのハンナ・デービスと結婚し、近々2世も誕生する予定。事業家としても辣腕を揮い、元フロリダ州知事のジェブ・ブッシュ氏とタッグを組み、マーリンズ買収にも乗り出している。そんなジーター氏が引退直後から開設したサイト「ザ・プレーヤーズ・トリビューン」で、永久欠番セレモニーを前にニューヨークの街に感謝の言葉を送っている。

 今ではすっかりニューヨークを代表する有名人の1人となったが、元々はミシガン州カラマズーという中西部の小さな地方都市で生まれ育った。小さな頃から野球で頭角を現したジーター氏は、1992年ドラフト1巡目指名(全体6位)でヤンキースに入団。1995年にデビューを果たすと、スターへの階段をまっしぐらに上り詰めた。

 入団当時は「大人しくて、自信がなくて、少し臆病だった」というが、この中西部出身の少年が球史に残る名選手に成長したのも、ニューヨークの街が「自分を証明するための挑戦を、常に突きつけてくれたからだ」と振り返っている。

ニューヨークの街が持つ厳しさで成長できたジーター氏

 まばゆい光の中、ハイスピードで進む生活。得られる物は膨大だが、期待はそれ以上に大きい。そんなニューヨークの生活スタイルの中で「挫けそうになった時、常に“サイン”を示してくれた」そうだ。それは「小さな女の子がくれる挨拶だったり、道の反対側から飛んでくる声援だったり、ヤンキースタジアムのグラウンドまで続く通路に届いた客席上段からのチャントだったり。チームメイトの支えだったり」、ジーター氏は1人じゃないと勇気づける“サイン”だったという。

 ピンストライプのユニフォームを着続けた20年間は「毎日起きて、ユニフォームを着て、仕事に出掛け、ベストを尽くし、言い訳をしないこと」こそ、ニューヨークに求められ、成し遂げてきたことだと感じているという。さらに、ニューヨークの街が持つ厳しさこそが「生粋のニューヨーカーじゃない自分に、自分の力でニューヨーカーになるように教え、生粋のヤンキース選手ではなかった自分を、一人前のヤンキース選手に成長させてくれた」と感謝の言葉を続けた。

「みんながNO1になる夢を持つ街で、(背番号)NO2で居続けることも十分過ぎると教えてくれた」

 いかにヤンキースの背番号「2」が偉大な存在だったか、これから先、長く語り継がれていくことだろう。