シリーズ累計900万部! 「カーネギー」本が愛される理由

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■主張は「普通で当たり前」だからこそ古典になった

『人を動かす』『道は開ける』などカーネギーの著作は「自己啓発の源流」として人気が高い。一連の著作を刊行している創元社は「シリーズ累計900万部突破!」と謳う。

カーネギーの主張は、普通で当たり前のことだ。『人を動かす』に書かれている「3原則」は、人を非難する前によく理解しようと努め自分のことも省みるべし、率直かつ誠実にコミュニケーションすべし、相手の立場に立ってその望むことを実現させるべし、といった感じ。『道は開ける』では、小さなことにくよくよするな、逆境を転じてチャンスとせよ、過ぎたことはどうしようもない、などと書かれている。

デール・カーネギーの代表作3冊●左から『人を動かす』(山口博訳)、『道は開ける』(香山晶訳)、『カーネギー話し方入門』(市野安雄訳)。いずれも創元社刊。ほかにもシリーズにはカーネギー協会が編んだ『リーダーになるために』『人を生かす組織』などがある。

それではカーネギーの言っていることにはさして特別な価値はないのか。

おそらくそう考えるべきではない。むしろ、このように「普通」「当たり前」であることが「古典」として支持されるポイントなのだと考えられる。

筆者の専攻は社会学だが、その立場から「自己啓発書の読者」を調査したことがある。自己啓発書を読む動機は何なのか、どのように読んでいるのか、読んだことで自分自身どうなったか、といった点をインタビューで17人の方に聞いてみた。

■「残念な読者」は少数派多くは「冷静な拾い読み」

この記事を読んでいる皆さんは、自己啓発書はどのように読まれていると思われるだろうか。「自己啓発ブーム」を騒ぎ立てる雑誌記事では、自己啓発書を真に受けた人々がしばしば登場し、「残念な」人々だとして面白おかしくとりあげられるのだが、そのような読者はほとんど見当たらなかった。内容を真に受けている読者は、実際のところはごく少数派だと考えられる。

ではどう読まれているのか。皆さんもこの記事を「話半分」で読んでいるだろうし、その反応のあり方は「ふーん、そうなんだ」「やっぱりそうか」「ちょっとどうかなあ」といったささやかなものだろう。インタビューの結果もおおむねそのようなものだった。

自己啓発書の読者は内容を真に受けるわけではない。自分の興味のあるところだけを「つまみ食い」的に読み、わからないところや同意できないところは飛ばし(あるいはその時点で読むのをやめ)、そもそも「全体を10としたら、1か2くらい」しか自分に有益なところはないと、自分にとって使える情報を冷静に拾い読みしている。

それでは、内容には距離を取りつつも、お金を払って自己啓発書を買い求める目的や用途とは、どのようなものだろうか。筆者の調査した限りでは、読者が行っているのは、いまの自分自身の考え方や行動の仕方を「確かにする」ことである。「確かにする」というのは、仕事の進め方はやっぱりこれでいいんだ、これは重要だと思っていたけどやっぱりそうなんだ、いまの自分に取り入れられそうなところはこの本のなかのコレとコレだ、というように、これまでの人生での経験や現在の状況から可能な範囲で自己啓発書の情報を取り入れ、自らを「補強」するような読み方をしている。

■「これでいい」という自己確認の道具になる

電車内の広告にあるような、「この本を読んで人生が変わった」という劇的な経験が起こることはまれだ。自己啓発書(的なもの)を読んだ経験があるほど、劇的な経験はより起こりにくくなると考えられる。というのは、それまで読んだものとの比較から、「やっぱりそうか」という反応に落とし込まれやすくなるためである。

このような自己啓発書の読まれ方を考慮すれば、カーネギーの著作は「普通」だからこそその役割を大いに果たすのだと考える筋道ができる。つまり、品のよい書きぶりで、現代にも通じるような普遍的エピソードを通して、誰もがうなずくような「いいこと」が書いてある。読者からすれば、やっぱりこれでいいんだ、やっぱりこれが重要なんだ、これなら私にもできそうだ、といった読み方がしやすい。

「普通」であればあるほど、読者はそれぞれの自己確認の動機にしたがって、それぞれの「いいこと」を発見しながら読むことができるのである。これは松下幸之助の著作などにもいえることかもしれない。

だが、「いいこと」を書けば誰でもベストセラー作家になれるわけではない。「権威づけ」が必要だからだ。デール・カーネギー、松下幸之助、あるいはピーター・ドラッカーでもアルフレッド・アドラーでもいいのだが、読者が「やっぱりこれでいいんだ」と背中を押してもらった気分になれる権威が必要になる。

■日本の職場環境の変化が「愛される理由」か

その点で「古典」は一つの落としどころになるだろう。自分ではすでに何となくそうだと思っていることを、誰かの後押しによって確証してもらう外部承認装置、それが自己啓発書の今日における役割であり、それを最もよく果たしうるのがカーネギーをはじめとする「古典」なのではないだろうか。

そうした確証を得るには、職場で誰かに少し聞くなり、教えてもらうなりすればよいと思うかもしれない。これに関して読者インタビューでは、上司が忙しくて聞く機会がない、職場の業務が細かく分かれていて自分の知りたいことを確かめられそうな人がいない、といった話がしばしば聞かれた。もちろんそのような職場ばかりではないだろうが、ここ20年近く続いている自己啓発書の隆盛は、日本の職場の変化にも関わりがありそうだ。

また、わざわざ人に聞くよりも、無数の手がかりを自由につまみ食いできる自己啓発書のほうが気楽だということかもしれないし、わざわざお金を払って一人で本を手にするというシチュエーションをつくること自体に意味があるのかもしれない。

「古典」だけが自己啓発書ではない。直球勝負で「いいこと」を述べる「古典」があるからこそ、異なる自己啓発書が生まれる。業種、年齢など読者層をより絞ったもの、「話し方」のように切り口を絞り込んだもの、むき出しの野心や支配欲に訴えかけるもの、図解やマンガ、物語仕立てなどの見せ方に工夫を置いたもの……。売れ筋のニッチを求め、またニッチに対しては「王道」が再度張り返され、自己啓発書は日々書店に並び続けている。

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牧野智和
大妻女子大学人間関係学部専任講師。1980年、東京都生まれ。2009年早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(教育学)。著書に『自己啓発の時代』『日常に侵入する自己啓発』(共に勁草書房)。15年4月より現職。
 

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(大妻女子大学人間関係学部専任講師 牧野智和)