【全文掲載】なぜ岩下敬輔は、シーズン途中でガンバ大阪へ移籍したのか【飯竹友彦】
■若いチームで自分を上手く表現できなくなった
2010年のレギュラーメンバーたちは、岩下が試合中にどんなに感情を露わにしても、「まあまあ」、「判ったから」とたしなめる程度だったし、人によっては聞き流していた。実際、本田や西部などは、「いつものことだから」、「あれがなくては敬輔じゃないよ」とまるで意に介さない様子。指揮官だった長谷川元監督も苦笑いして吹き飛ばした。その岩下の強烈すぎる個性も、若さ故のこと、チームを思うが故の熱さとしてチームとしてもポジティブな要素として歓迎しているような印象を受けた。しかし、平均年齢が極端に下がった今年のチームにあって、岩下も自分を上手く表現をできなかったように思う。
■ガンバ浮上の助けとなれるか
そう考えると、このタイミングで清水を出てG大阪への移籍をしたことは本人にとっては良かったのかもしれない。その能力を高く評価し、2年ほど前からオファーを出し続けてくれたG大阪ならばクラブも最大級の礼を持って迎えてくれることだろう。また、G大阪には同じ鹿児島出身の遠藤保仁が居るのも心強い。岩下というとう個性は、同郷の先輩やDFラインをまとめる今野が上手く手綱を操ってくれることだろう。そうなれば、岩下も持て余した情熱や、その強烈なパーソナリティと能力を存分にピッチ上で表現できることだろうと思う。
8月11日に行われた第21節の大阪ダービーでは早速ベンチ入りを果たし、22分には負傷した加地の代わりにピッチに立った。緊張からか投入後に、C大阪に2得点を許したものの、後半には同点となる佐藤のゴールをアシストした。合流して僅かな期間しかなかったことを考えると、まずまずのデビューを飾ったと言えるだろう。残念ながら加地の負傷(全治10週間のリリース)は長引きそうだが、SBもCBもこなすことのできる岩下の加入は現在のG大阪にとっては不幸中の幸いと言える。また、「必用とされたクラブの力になりたい」、「また代表にもチャレンジしたい。自分としても勝負となる。追い込んでもう一皮向ける、そういう環境だと思う」という強い気持ちとで移籍を決めた。そのプレー、その奮闘が降格圏内に沈むG大阪の浮上の助けとなる可能性は大きいだろう。
8月4日、清水での最後の練習日となった岩下への挨拶を予て三保を訪ねた。最後の最後まで、調子の上がらないチームに対し責任を感じ心配をしていた。そして、そんな状況でチームを出る決断をしたこと、そんな自分をずっと支えてくれたサポーターのこと、レギュラーだったラジオ番組のことなど、様々なことを気遣いコメントを残した。練習が終わり、段ボール箱一杯の荷物を持って駐車場に表れた岩下は、いつもの「ありがとうございました」に加えて、「頑張ります」と力強く言い愛車に乗って去っていった。
■飯竹友彦
1973年生まれ。平塚市出身。出版社勤務を経てフリーの編集者・ライターに。同時に牛木素吉郎氏の下でサッカーライターとしての勉強を 始め、地元平塚でオラが街のクラブチームの取材を始める。以後、神奈川県サッカー協会の広報誌制作にかかわったのをきっかけに取材の幅を広げ、カテゴリー を超えた取材を行っている。「EL GOLAZO」で、湘南ベルマーレと清水エスパルスの担当ライターとして活動した。現在は思いつくまま、気の向くままに、さまざまな現場に出没している。
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