閖上で製作した映画について解説する桑山医師

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 心的外傷後ストレス障害(PTSD)が日本で注目されるようになったのは、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災がきっかけだ。PTSDを発症しても、医療機関にたどり着くまで年月がかかることは珍しくない。なかには、東日本大震災の報道によって阪神・淡路大震災を思い出し、眠れなくなる人もいた。

【写真】遺児という当事者の立場からサポートを行う西田さんと中村さん

「津波ごっこ」をする子どもが増加

 一方、東日本大震災をきっかけに、2013年、災害派遣精神医療チーム(DPAT)が発足。翌年、広島市の大規模土砂災害や御嶽山の噴火で初めてチームが出動した。最近は、西日本豪雨や北海道胆振東部地震で活動している。

 戦争や犯罪、事故、性暴力、自然災害など大きなストレスを受ける出来事によって、心に深刻な傷が刻まれることがある。すると、気持ちが高ぶったり、無感覚になったり、不眠になったりする。子どもだとなおさらだ。東日本大震災では津波がきたと言って隠れたり、おもちゃの街並みを壊したりする「津波ごっこ」をする子どもが多く見られた。

 災害をめぐり心のケアの現場はどうなっているのか。

 心療内科医の桑山紀彦さん(56)は、自身のクリニックで診療する傍ら、NPO法人『地球のステージ』の代表理事として、60か国以上の紛争・災害現場で医療支援を行ってきた。

 3・11が起きたのは、当時、宮城県名取市閖上地区にあったクリニックを開業して2年目のことだ。津波で思い出の場所が失われ、多くの命が奪われた。そのため、子どもたちを中心に心のケアを始めた。

 トラウマ体験は、災害を生き延びた人々にどう影響するのか。

「人間の記憶は通常、順番どおりに並んでいて、感情とセットで出来事を覚えています。ところが、強いトラウマ体験をすると途中の記憶が欠落し、順番が入れ替わることがあります。そればかりか、出来事と記憶が切り離されたりもします。

 出来事を映像で記憶してはいるものの、不安な気持ちはどこかへ行ってしまう。そのため語ることで記憶を埋めて、順番どおりにし、感情をくっつけるのです」(桑山さん、以下同)

 つらい記憶と向き合うことによる心のケアは、日本では浸透していない。震災当時、子どもたちが被災体験と対峙することに、周囲の強い反発があった。

「学校の先生から“眠れなくなったらどうする?”と言われたり、避難所で津波という言葉を使うと、臨床心理士が止めに入ったりすることもありました。かつては、つらい体験をしたことなどを写真で見せて、ショックを与えて、慣れさせる治療も一部で行われていたので、誤解されたのかもしれません。そうではなく、語りたいことを話し、整理し、表現するのです」

 心のケアには安全の確保が前提となる。

「仮設住宅に移り住む夏休みまではできませんでした。名取市は福島第一原発事故の避難先でもありましたが、原発事故は進行形で、まだ過去になっていません。ですから(原発避難者の心のケアは)難しい」

「トラウマと共存するのです」

 桑山さんが行ったケアは、津波のことを語り、表現するという方法だ。トラウマ体験と向き合うことで、語り部になる人もいる。

「大人はつらい出来事の解決を先送りにしようとします。私たちがするケアで、“寝た子を起こすな”“余計なことをするな”と言われてしまうことがありました。しかし、しゃべりたいのは本能です。大切な人の死などのつらい体験を話すことで、それと向き合い、ともに生きる術を身につけていく。

 ただし、“向き合う”とは“乗り越える”こととは違います。死を乗り越えるのは無理です。トラウマと共存するのです」

 子どもの場合、被災体験を大人のようにはうまく言語化できない。まずは絵画や粘土などの遊びを通して表現できるよう働きかける。さらに桑山さんは、東日本大震災で被災した子どもたちと映画づくりも行っている。

 『ふしぎな石〜閖上の海』という作品で、集めた石から、津波で亡くなった人の声が聴こえるというストーリー。主人公は震災当時、小学校1年生だった南部陽向さんだ。

「実際に被災した子どもがフィクションを演じます。閖上の海に何度も行きました。津波は命を奪ったものです。それと向き合うことで、最初は嫌な気持ちがあったと思います。でも撮影を通じて、津波にあったからこそ気がついた思いもあるとわかっていきました」

 トラウマと向き合えないままなら、どうなるのか。

「お風呂で溺れる、下水道管に吸い込まれるなど、悪夢や嫌な夢を見ることがあります。仕事にやる気がなくなり、眠れなくなったりするのです。被災から10年以上を経て見た夢の場合、トラウマとしては深刻で、放置したら消えません」

 '16年の熊本地震でも、桑山さんは子どもたちへ心のケアを行っている。

「絵画や粘土遊びを通して、被災した日の出来事を話してもらいました。そして、被災した場所を実際に訪れて、震災当日の体験を再現するなどして、記憶の埋め直しを行ったのです。こうした取り組みは専門家の私でなくてもできます。例えば、家から避難所までをたどることでもいいのです」

 遺児と同じ立場だからこそ、できるサポートがある。『あしなが育英会』の取り組みだ。阪神・淡路大震災や東日本大震災では、遺児や孤児が多く出たため、支援のための施設『レインボーハウス』を作った。

 仙台レインボーハウス所長の西田正弘さん(58)は、父親を交通事故で亡くした経験がある。遺児は経済的に進学が難しく奨学金が必要だと思い、阪神・淡路大震災の被災地へ遺児仲間とともに出向いた。

「死者が増えたため、遺された子どもたちがいると思い、探し歩いたのです。それまで接していた子どもたちは、自分と同じ交通事故の遺児だったのですが、親が亡くなる現場を見ていません。

 しかし震災遺児・孤児の場合、その現場を見ていたり、自分も死ぬ思いをしています。大学生のボランティアと遊んでいるときのリアクションがただごとではありませんでした」(西田さん、以下同)

 当時「あしなが」は心のケアについては手探り状態だった。自分史を語るための「つどい」は行われていたが、対象は高校生以上に限定。それを中学生以下にも広げたのは阪神・淡路大震災以降だ。そんな中で出会った小学生は描いた虹を自ら黒で塗りつぶしていた。

「黒い虹を元の虹に戻そうとの発想から、支援施設の名前はレインボーハウスになりました。私たちは専門家ではありません。遺児としての体験があり、当事者として放っておけなかった」

2〜3月になると落ち着かなくなる子も

 阪神・淡路大震災後、震災遺児・孤児へのサポートを本格化。アメリカにある、愛する人を亡くした子どもや家族のための『ダギーセンター』で研修も受けた。

「気持ちを吐き出させればいいという考えもありましたがダギーセンターで学んだ手法を取り入れました。深い悲しみやトラウマについて話すのを決めるのは子ども自身。主導権は子どもにあります」

 このときのノウハウが、その後の自死遺児支援につながり、東日本大震災の震災遺児・孤児へのサポートにも結びついていく。

 宮城県では'04年、『仙台グリーフケア研究会』が立ち上がった。自死遺族のための「わかちあいの会」を作り、'10年には地域自殺対策緊急強化基金の支援を受けて、子どもを対象に「ワイデイプログラム」も立ち上げている。そんな時期に東日本大震災が起きる。

東日本大震災の前には、仙台で、自殺対策でつながった人たちがいました。'11年5月にはワンデイプログラムの対象を津波遺児・孤児にも拡大。日常的なケアが広がっていた時期だからこそ、突発的な災害があっても受け入れることができたのです」

 震災から8年。いまだからこそ体験を話せるという人がいる一方で、2〜3月になると落ち着かなくなる子も少なくない。卒業式や入学式といった節目に、亡くなった友人を思い出すなど気分が落ち込むこともある。スタッフの中村優一さん(27)は課題をあげる。

「震災当時、まだ生まれていなかった胎児の場合、いまは小学生になっています。3月11日は月曜日、親とは別々に過ごすことになる。どう過ごすか、揺れている場合もあります」

 置かれた状況によって子どもたちはさまざまな不安を抱える。息の長いケアやサポートが求められている。

(取材・文/渋井哲也)

《PROFILE》
しぶい・てつや ◎ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。東日本大震災以後、被災地で継続して取材を重ねている。『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)ほか著書多数。