4月23日、上行結腸がんにより元プロ野球選手で広島カープに所属した衣笠祥雄氏が死去した。2215試合連続出場という不滅の記録を持ち、ファンからは「鉄人」と愛された同氏は、亡くなる4日前まで解説の仕事をまっとうしていた。

すると5日、TBS「バース・デイ」では「追悼 鉄人・衣笠祥雄 野球への愛と魂の生き様」と題し、衣笠氏の野球人生をプレーバック。放送の中では、広島時代のチームメイトで引退後も親交が深かった江夏豊氏が同氏の闘病生活について言及した。

まず江夏氏が語ったのは「江夏の21球」としても知られる、1979年の日本シリーズ第7戦について。広島が4対3と1点リードした9回裏、江夏氏はノーアウト満塁という絶体絶命のピンチに陥ったが、チームがリリーフ投手を用意させていることを知るや怒りに震えたという。

「1塁側のブルペンに池谷(公二郎)君と北別府(学)君が走ったんです。同じブルペンでやるんだったら、大阪球場は室内のブルペンがあるんです。そこでやらしゃあいいじゃない。見えないんだから。それを見えるところで2人にやらすっちゅうのはプライドが傷つけられた。最後の最後で古葉(竹識)監督が俺を見捨てたか。投げやりな気持ちになりました」

番組のカメラにこう振り返った江夏氏。この時、衣笠氏は同氏の異変に気づくとマウンドへと歩み寄り、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな。お前にもし何かあったら俺も一緒に舐めてやるよ」と声をかけたという。

この言葉で自分の投球を取り戻し、後続を抑えてチームを球団創設以来初の日本一に導いた江夏氏は、衣笠氏に「『うるさい』と言いながら心のどこかで『ありがとうよ』という気持ちになりました」と感謝の気持ちを述べた。

また、衣笠氏が体調を崩してからは頻繁に連絡を取り合っていたという二人。江夏氏は「はじめのうちは10日に1回。それが週に1回。最近は3日4日に1回は必ずお互いに連絡を取り合っていた」と切り出すと、「(衣笠氏が亡くなる)10日ほど前もサチから電話があって『腹水が溜まるんだ。腹水が10キロほど溜まる。苦しいんや』いうから」と病気に苦しむ衣笠氏の様子を明かした。

その上で「普通の人間だったら、そこまで持ってないと思うんです。彼だからこそ、まさに鉄人だからこそ3年4年近く頑張ったと思うんです」としみじみ語った江夏氏は、「心から拍手を送りたいですね、よく頑張った」と亡き戦友に労いの言葉をかけた。