4月19日、財務次官セクハラ問題で記者会見するテレビ朝日の篠塚浩報道局長(右端)ら(写真=時事通信フォト)

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財務次官のセクハラ問題で、新聞各紙が社説で財務省を批判している。そのうち読売新聞だけがトーンがやや異なる。「データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない」としてセクハラ被害を受けていたというテレビ朝日の女性記者を批判しているのだ。だが女性記者は上司から「報道は難しい」と断られている。倫理が問われているのは、記者の行為なのか――。

■全国紙すべてが社説に取り上げた

超エリート官僚である財務省の福田淳一事務次官の辞任表明が、テレビや週刊誌、そして新聞で大きく取り上げられた。

「おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」「キスしていい?」「浮気しようね」

福田氏はこんなあぜんとさせられるような言葉を都内のバーで何度も繰り返しながらテレビ朝日の女性記者に迫った。被害を受けた女性記者は彼女だけではないという。

財務省の事務方トップと取材記者。記者にとっては仕事である。しかし福田氏にとっては大きく違っていた。

女性記者は1年ほど前から数回、取材目的で福田次官と会食していたが、その度にセクハラ発言を浴びた。そのため「身を守ろう」と会話を録音していた。週刊新潮のニュースサイトで音声データもアップされた。

週刊新潮(4月12日発売)がセクハラ行為を書いた後も「女性記者と会食した覚えもない」と全面否定していたが、更迭された。しかしその後も「あんなひどい会話をした記憶はない」とセクハラ行為を否定している。

沙鴎一歩は、週刊新潮で福田次官のセクハラ行為が報じられた当初、この話題を新聞の社説が取り上げることはないだろうと考えていた。

だが朝日新聞が4月17日付の社説で「財務次官問題 混乱は深まるばかりだ」を掲載したのを皮切りに結局、全国紙すべてが社説で論陣を張った。

それだけ福田氏の行為がひどかったことになるのだが、いまの時代、「女性を侮ると、自らの生命を失う」という目に遭う。セクハラ問題の本質を福田氏はまったく理解していない。

■福田氏も財務省も国民の目をあざむこうと懸命だ

4月17日付の朝日社説は「財務省はきのう、部下である官房長らの聴取に対し、福田氏は疑惑を否定したと発表した。だが、与党内からも辞任を求める声が上がっており、混乱は収まりそうにない」と指摘し、「この間、福田氏は記者団から逃げ回り、取材にまともに答えようとしなかった。報道が事実と異なるのであれば、ただちに反論できたはずなのに、なぜそうしなかったのか」と書く。

福田氏は最初から否定の構えで、財務省の事務方トップとしていまだにまともな記者会見も行っていない。財務省もひどい。部下の官房長による聴取では結果が見えている。福田氏、財務省ともども国民の目をあざむこうと懸命なのだ。すべてうやむやにしようと企んでいた。

朝日社説は「麻生財務相の対応の鈍さ、危機感の薄さにも驚く」とも書く。

「報道当日、国会で追及されると、本人から簡単な報告があったとしたうえで、『十分な反省があったと思うので、それ以上聞くつもりはない』と、事実確認すらしない考えを示した」
「翌日の記者会見では、『事実だとするなら、それはセクハラという意味ではアウトだ』との認識を示しながら、『本人の長い間の実績等々を踏まえれば、能力に欠けるとは判断していない』と擁護した」

「反省があった」「事実だとするなら」「長い間の実績」という言葉を使って発言するところなど、麻生氏もセクハラ行為の問題性をまったく理解していなかった。

■「セクハラ調査には繊細な配慮が必要だ」と毎日

毎日新聞の社説(4月18日付)はその中盤で「(財務省が)事実解明のための『協力要請』と称して、セクハラを受けた女性記者に名乗り出るよう呼びかけている」と書き、こう指摘する。

「女性記者からの訴えを受け付けるのも、役所の顧問弁護士だ。『客観性を担保する外部』の中立的な立場とは言えない。セクハラ問題は調査に繊細な配慮を要する。まだ事実関係がはっきりしないにせよ、このやり方では、官庁の権力を背にした一方的な印象を拭えない」

その通りである。財務省側には「繊細な配慮」がまったくないのだ。それどころか当初から「女性記者は出てこられない」と高をくくっていた。

さらに毎日社説は「野田聖子総務相は閣議後の記者会見で『家族にも言いづらい話で、相手方に話をするのは私個人でも難しい』と述べた。与党内からも同様の批判が出ている」とも指摘する。

■「財務省は醜聞の擁護者」と産経

次に4月18日付の産経新聞の社説(主張)。政権や行政寄りの社説が多い産経社説にしては「財務省は醜聞の擁護者か」とかなりきつい表現を使って見出しを立てている。

産経社説も財務省の女性記者に対する協力要請を取り上げ、「麻生氏も会見で『(被害女性が)出てこないといけない。申し出てこないと、どうしようもない』と、被害者なしには事実認定できないとの考えを示した」と書いたうえで、こう主張する。

「聞きようによっては、恫喝である。セクハラ問題対応の大原則は被害女性の保護だ。それが女性記者であっても、何ら変わることはない」

財務省の要請を「恫喝」と批判し、「被害女性の保護」を強調する。このへんも産経社説にしては珍しく女性の見方になっている。沙鴎一歩は内心、驚いた。

最後に産経社説はこうも指摘する。

「福田氏は、問題とされるやりとりについて、自身の関与をぼかしながら『悪ふざけ』『言葉遊び』と表現した。問題の根幹を理解していないらしい。官僚には常識や徳目も求められる」

冒頭で書いたように福田氏はセクハラ問題の本質をまったく理解していないのである

■「セクハラは到底許されない」と読売

全国紙の中で最後だったが、安倍政権を擁護することが多い読売新聞も社説のテーマに取り上げた。

4月20日付の読売社説は「問われる人権配慮と報道倫理」と見出しを立て、福田氏や財務省の姿勢を問題にする他社の社説とは少々違う。

書き出しは「主要官庁の次官が、セクハラ疑惑で職責を果たせなくなっている。辞任しか選択の余地はなかったと言えよう」と割と静かだが、社説中盤では「セクハラは重大な人権侵害である。事実とすれば、到底許される行為ではない」と言い切っている。

読売社説は「福田氏は記事の内容を一貫して否定している。名誉毀損で新潮社を訴える姿勢も示した。これに対し、テレビ朝日は、自社の女性記者が福田氏からセクハラ被害を受けていた、と発表した」と書き、「福田氏があくまで否定するのであれば、司法に事実認定を委ねるしかないのではないか」と主張する。

この後も含め、読売社説の指摘や主張は朝日や毎日、産経などの社説と変わらず、理解できる。問題なのは後半部分である。

■報道倫理で判断する読売は大きな間違いだ

「取材で得た情報は、自社の報道に使うのが大原則だ。データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない」

こう書いて読売社説は音声データを週刊新潮に提供したテレビ朝日の女性記者を批判する。

しかし女性記者にとって録音やそれを外部に出した行為は、自分自身を守る唯一の方法だったと思う。あくまでも彼女は被害者なのだ。そこを忘れてはならない。読売社説のように報道倫理の観点から彼女の行為を判断するのは大きな間違いである。

続けて読売社説は「取材対象者は、記者が属する媒体で報道されるとの前提で応じている。メディアが築いてきた信頼関係が損なわれかねない」とも書くが、これもおかしい。彼女の場合、セクハラの被害という特殊なケースである。しかも上司に「この問題を報じたい」と申し出ていたという重大な事実を無視している。

読売社説は最後に「テレビ朝日の対応も看過できない。最初に被害の訴えを受けた際、会社として財務省に抗議などをすべきではなかったか」と書き、「記者を守り、報道のルールを順守させる姿勢を欠いていた、と言わざるを得ない」と指摘しているが、ここは納得できる。

テレビ朝日は女性記者から相談を受けた時点で早く対応し、自社で報じるべきだったと思う。

(ジャーナリスト 沙鴎 一歩 写真=時事通信フォト)