1983年5月、立川談志は落語協会を脱退し、家元となって立川流を創設することを決意した。直接の原因は、落語協会の真打昇進試験に望んだ弟子2人(立川小談志こと後の喜久亭寿楽、立川談四楼)が落とされ、明らかに実力が下回ると判断した者が合格したことである。試験の基準に対して異を唱え、自らの主張が通らないと見ると即座に協会を見限る判断をした。当時の協会会長は五代目柳家小さん(先代。故人)、談志の師匠でもある。