『UP』2015年4月号(東京大学出版会)
全国の大型書店などで無料で頒布されているほか、公式サイトを通じて通信販売も行なっている。4月5日発行の今月号では、最終回を迎えた秋草俊一郎の連載「二一世紀 世界文学カノンのゆくえ」のほか、毎年恒例のアンケート特集「東大教師が新入生にすすめる本」も読みどころ。

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明治以降の日本の作家でもっとも国際的知名度が高いのは誰だろう? 日本だけでなく多くの国々でも作品がベストセラーになっている村上春樹かよしもとばななか。それとも、戦後多くの作品が外国語に訳され、ノーベル文学賞の有力候補・受賞者にもなった谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・安部公房・大江健三郎のうちの誰かなのか。さらにさかのぼって、森鴎外や夏目漱石といった明治の文豪たちはどうなのだろうか。

一つの指標となりそうなのが、アメリカの世界文学アンソロジーに収録された作品数だ。これは主に大学の講義でテキストとして使われているもので、アメリカを含む世界各国の何十、場合によっては何百もの作家や作品が数巻にわたってまとめられている。実質的に日本の世界文学全集に近いものだ。

比較文学者の秋草俊一郎は、「二一世紀 世界文学カノンのゆくえ」(東京大学出版会の月刊誌「UP」にて2014年6月号より隔月で掲載)という連載の第3回(2014年10月号)において、2002年〜04年にアメリカで出版された3種類のアンソロジーに日本の作家・作品がどれだけ収録されているか調査している。アンソロジーのうち19世紀以降を扱った巻を調べたところ、3種のアンソロジーすべてに登場する日本人作家が一人だけいた。誰かといえば、樋口一葉である(各アンソロジーに収録されたのは「たけくらべ」「十三夜」「わかれ道」の3作品)。

続く連載の第4回(2014年12月号)ではさらに調査対象を広げて、1994年から2012年にアメリカで出版された8種類のアンソロジーから、日本人作家の登場回数(作品が収録された回数)を統計している。ここでも一葉が7回登場と断然の1位だ。6回の川端康成がそれに続き、以下、4回の谷崎潤一郎、3回の与謝野晶子・芥川龍之介・村上春樹、2回の三島由紀夫・大江健三郎の順となっている。日本では国民作家と位置づけられ、個人の作家ではもっとも研究が盛んなはずの漱石はまったく出てこない。

もっとも、だからといって英語圏で「イチヨー・ヒグチ」が特段に人気作家であるとか、研究が盛んだというわけではないらしい。それにもかかわらず、なぜ一葉は繰り返しアンソロジーに採録されるのか? これについては、ここ2、30年ほどの「世界文学」のとらえ方の変化が大きく影響しているようだ。

従来、アメリカの世界文学アンソロジーは西洋古典が中心、とりあげられる作家も当然ながら白人男性が大半を占めた。こうした傾向に対し抗議の声が1980年代後半になってアメリカの西海岸の大学を中心に上がり始める。アメリカ先住民・黒人・ヒスパニックなどの人種や民族、あるいは女性といったマイノリティを組み入れる形で世界文学を再編しようという動きが出てきたのだ。さらに90年代にはアジアやアフリカ、ラテンアメリカと西洋以外の文学も積極的に組み込まれていくことになる。一葉がアンソロジーに登場したのはそうした変化のなかでのことだ。

秋草俊一郎は、一葉の採録の理由として【1】近代日本における(そしておそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家であること、【2】作品がどれも短いこと(ゆえに紙幅の限られたアンソロジーに代表作を収録しやすい)、【3】一葉が西洋文学の影響をほとんど受けなかったことをあげている。

【1】に関していえば、先述したような「世界文学」の再編のなかで、地域的・人種的にも性別的にもマイノリティである一葉が注目されるのはしごく納得がゆく。【3】は、一葉と同じ明治期の文学者でも鴎外や漱石、あるいは二葉亭四迷や尾崎紅葉などがアンソロジーにほとんど登場しない理由にもつながっている。世界文学アンソロジーのうちベッドフォード版には、明治期の文学について《森鴎外の多くの同時代人は、ギュスターヴ・フローベールやエミール・ゾラといったフランスの作家や、イヴァン・ツルゲーネフのようなロシアの作家のような西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似ていた》といった解説すら出てくるという(連載第3回)。

日本語が、明治期に文語体から口語体へと大きく変革されたことは、私たちにとっては常識である。だが、翻訳越しに日本文学と接する海外の読者には、古い日本語も現在の日本語も違いはなく、西洋文学から学びながらも独自のスタイルをつくりあげていった日本の文学者たちの苦闘の歴史は目に入ってこない。たとえ目に入っても、単なる物真似と片づけられてしまうのは残念なことである。

それでも世界文学のなかに一葉を置くことで、これまでにない視点も提示されている。前出のベッドフォード版のアンソロジーでは、「世界に普及するリアリズム」というセクションにおいて、一葉がトルストイ(ロシア)やフローベール(フランス)、イプセン(ノルウェー)といった同時代の西洋文学の巨人たちと並んでとりあげられているという。

作品・作家をテーマごとに分類して、地域や時代を超えた類似や影響関係を見出す試みは、ベッドフォード以外のアンソロジーでも行なわれている。ロングマン版のアンソロジーでは、「マニフェストの芸術」と題して、イタリアのマリネッティの『未来派宣言』、フランスのツァラの『ダダ宣言』やブルトンの『超現実主義宣言』などと並んで、横光利一の『新感覚論』が紹介されているという。また同じくロングマン版では、ドストエフスキーの『地下室の手記』と類似・共鳴関係にある作品としてニーチェの『曙光』と石川啄木の『ローマ字日記』がとりあげられているというから興味深い。

世界文学アンソロジーの収録作家・作品はもちろん不動というわけではない。学問ばかりでなく流通や市場の動向にさらされて、その内容は変化し続けている。日本文学がアメリカのアンソロジー全体で占める割合も、2000年代初めには3種類平均で6.05パーセントだったが(ページ数から算出)、2010年前後に新版が出た2種類のアンソロジーでは平均5.41パーセントと微妙に下がっている。これは主にノートン版アンソロジーの第3版(2012年)の20世紀の巻で、それまで現代日本文学に割かれていた約100ページに、莫言(中国)、サルマン・ラシュディ(インド→イギリス)、オルハン・パムク(トルコ)など、ほかのアジア諸国出身の現代作家が採録されたことが大きく響いているらしい。

このノートン版では日本人作家の扱いにも目立った変化があった。それまで初版(1995年)と第2版(2002年)で採録されてきた庄野潤三や小島信夫といった「第三の新人」の作家たちが姿を消し、芥川龍之介と大江健三郎に加え、久志富佐子という日本でもほぼ無名の作家がとりあげられたのだ。

沖縄出身の久志は実質、収録作である『滅びゆく琉球女の手記』という一作しか残していない。アンソロジーでは、本作とあわせて沖縄の歴史、日本本土との関係、多くの沖縄人が貧困から本土に出稼ぎに出ていたことなど、作品のバックグラウンドについて詳細な解説がつけられているという。これについて秋草は《ノートン版アンソロジーの編者がこの作品を収録したのは、マイノリティの問題を浮びあがらせるというかなり露骨な政治的な意図――いや、教育上の配慮があることは明らかだ》と書く(連載第4回)。アンソロジーが大学教育で使われることを前提としている以上、収録作品には文学作品としての完成度の高さばかりでなく、教育的に高い効果をもたらすかどうかも重要だというのだ。

「二一世紀 世界文学カノンのゆくえ」は、今月5日に発行された「UP」4月号掲載の第6回をもって連載を終えた。連載タイトルの「カノン」とは、文学研究においてあるディシプリン(規律)の枠組において権威を持たされたテクストのことで、日本語では「正典」と訳される。最終回において著者の秋草俊一郎は、いかに権威的に見えるカノンでも、個人的な偏好が介入していると指摘する。むしろ秋草はそのような偏好にこそ興味があるといい、《偏りのない、だれからも文句の出ない、完璧なポリティカル・コレクトネスを達成した、最大公約数的な「世界文学カノン」ができたとして、そんなものは読みたくもない》とまで言い切っている。

思えば、この連載では言及されていないものの、作家・池澤夏樹の個人編集による『世界文学全集』および現在刊行中の『日本文学全集』(いずれも河出書房新社)などはまさに「個人的な偏好」を反映させた全集と呼ぶにふさわしい。他言語圏の読者が日本文学を翻訳を通じて、古文と現代文の落差を気にすることなくフラットに接していることを思えば、古典を現役作家による現代語訳で収録する池澤版『日本文学全集』は、きわめて「世界文学」的な試みともいえそうである。

「二一世紀 世界文学カノンのゆくえ」では、世界文学アンソロジーが、異なる効果を持つカード同士を組み合わせて戦うTCG(トレーディングカードゲーム)にもたとえられていた(連載第5回、2015年2月号)。たしかに、国や時代といった制約を離れて作品と作品を自由に結びつけることで、それまで思いもよらなかった視点を提供するアンソロジーはTCGと結構近いものがある。池澤夏樹のように実際に出版するのは無理としても、ゲーム感覚で自分なりに収録作を選んで「ぼくのかんがえたさいきょうのぶんがくぜんしゅう」を想像するのは誰にでも可能だろう。私もちょっと挑戦してみたくなった。
(近藤正高)