『鬼はもとより』青山文平/徳間書店

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第152回の芥川・直木賞も全候補作を読んで予想をお届けします。こちらは直木賞編です。(芥川賞編はこちら)
今回も★で本命度を表しますが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます(5点が最高。☆は0.5点)。

■青山文平『鬼はもとより』(初。徳間書店)
今回は3作が初ノミネートという事態になった。しかもそのうち2作が勧進元である文藝春秋の刊行作品である。もう1作がこれ。青山文平は2011年に『白樫の樹の下で』で第18回松本清張賞を受賞してデビューを果たした時代小説界期待の新人である。1948年生まれで決して若くはないのだが、時代小説作家はもともと平均年齢が高めである。一作ごとに進境著しく、本作でついに金脈を掘り当てた観がある。
本書は藩札発行を巡る経済時代小説だ。藩札とは各大名家が自らの領地内で流通させた私貨幣であり、金銀で鋳造された公けの貨幣とは異なり、単なる紙切れである。それをなぜ発行するのか、どういうときに発行しなければならなくなるのかといった基礎から、藩札発行の陥穽とは何かといった実際の運用ノウハウまでを作者は小説の前半部でわかりやすく語っている。主人公の奥脇抄一郎は浪人の身の上だが、かつてとある小藩でこの藩札掛を勤めていた過去がある。藩札を発行しての財政が破綻しかけ、そのために起きるであろう争いを捨てて脱藩したのだ。今は江戸の裏店で万年青を商って世過ぎをしている彼が、石高わずか1万7千石の島村藩から要請を受け、そのために働くことになる。
題名の由来は、抄一郎に助力を要請した島村藩の家臣・梶原清明の言葉から来ている。藩札発行は、現代風に言えば「痛みを伴う改革」であり、もとより鬼になるのは覚悟のうち、というわけである。ここがおそらく本作の一般受けがしそうな要素だ。低迷する日本経済も同じで、政府は経済優先の政策をとっている。もし本作が直木賞を獲得すると、「鬼はもとより」と発言する経済人が出てきそうな気配もある。つまり時流に合っているのだ。それが作者の望むところがどうかは別として。
もちろん小説としてのおもしろさはそこだけではない。本書の中軸になるのは抄一郎と清明との友情だ。抄一郎には若いころ恋愛遊戯にうつつを抜かしていたという過去もあり、そのために友人も失っている。そうした柔らかい部分(正直に言えば、このあたりは少々拙さ、くどさを感じる)、剣の道においては目録を得たという硬い部分などが程よく配置され、経済小説という骨格に肉付きを与えている。もちろんクライマックスには剣戟もある。さらにいえば、時代設定を1758年の宝暦年間から始めているのも上手い。18世紀は時代小説でも手薄なのである。そういう意味では冒険もしている。決して派手ではないが、葉室麟『蜩ノ記』のようにウェルメイドで愛される小説なのだ。今回の本命は本書だろう。評価は★★★★。

■大島真寿美『あなたの本当の人生は』(初。文藝春秋)
同じく初候補作。意外なことに大島真寿美のデビューは文藝春秋の文學界新人賞で、1992年に同賞を受賞後、なんと2014年まで同社からは単行本が出ていなかった。ちょっと放置しすぎ。初単行本で初ノミネートというわけである。
主要登場人物は3人いる。森和木ホリー、本名森脇悠久子はジュニア小説〈錦船〉シリーズの大ヒットで知られるファンタジー作家で、最近は創作の発表はなく隠遁に近い状況にある、その秘書を務めるのが宇城圭子。公私にわたってホリーを支える存在である。もう1人、國崎真実は編集者である鏡味に連れられて森和木邸にやってきてホリーの内弟子になった。すでに彼女も新人賞を獲ってデビューしているのだが、後が続かずに伸び悩んでいたのである。こうした小説を巡る職業の女性3人が集えば、以降は「書くこと」を主軸にして物語が進んでいくように思うだろう。しかし、そうはならない。むしろ「書くこと」の重さ、それに囚われた生活の重さを実感させるようなエピソードが続いていくのである。だいたい内弟子になったはずの國崎真美は早々にギブアップしてしまい、なぜか森和木邸の厨房でコロッケを揚げることに熱中し出して宇城を呆れさせる。しかし、このコロッケが実に旨そうなのである。本書を読むと妙にコロッケが食べたくなる。
もちろん作家とはどういう存在かということも存分に描かれる。特に興味深いのは森和木ホリーという人物だ。彼女は書こうとして書くのではなく、すべてが降りてきてしまう人である。つまり創作の泉のようなものが内奥にある。だが逆の見方をすれば、それがあるために決して書くことからは自由になれないのだとも言える。自分が書くべきものの「尻尾」を「追いかけて追いかけて必至になって掴まえ」ているようでいて「こちらがあちらに掴まえられ」ている、「逃げても逃げても追いかけてくる」。そうした宿命を抱えた人物を描かれているというだけで本書は一読の価値がある。そのホリーに対して他の2人はあまりに凡人に過ぎるのだが、彼女たちにも自分なりの書くこととの距離の取り方が見えてくる瞬間があり、読者を安心させてくれる。一つの執着の形を描いた小説として、広く読まれるべき作品だ。
ただし、本書を評価しない人もいるだろう。コロッケなんて揚げてないで、もっと作家の業を書いてくれ、という注文が聞こえるようである。そこが不安材料なので評価は★★★とする。

■木下昌輝『宇喜多の捨て嫁』(初。文藝春秋)
もう一つの初ノミネート作がこれだ。第92回オール讀物新人賞受賞作の表題作を含む、作者の初の著書である。最初に断っておくが、新人の作品としては出色、木下は疑いなくずば抜けた才能を持つ作家である。織田・豊臣軍団や徳川家と関係ない、地方の戦国大名家に題材を採るのは最近の流行であり、美野の斎藤道三や関東の北条早雲よりは落ちるものの戦国の梟雄として宇喜多直家は名高い。目のつけどころとしては間違っていない。しかし木下が優れているのは、負の側面を持つ教養小説としてこの連作を書いた点にある。
表題作は宇喜多直家の四女・於葉である。彼女の姉たちは、直家が同名を結んだ豪族や主家にそれぞれ嫁がされたが、いずれも悲劇的な末路を迎えた。直家によってそれらの家が滅ぼされたからである。その運命を見てきた於葉は、輿入れに当たって宇喜多家の敵となることを直家に宣言し、後藤勝基の正室として嫁いでいく。この時点では直家という人物は血も涙もない梟雄であり、あるいは人を超えた魔王のようにも見える。それが裏返されるのが第二話の「無想の抜刀術」だ。彼の生い立ちを描く幼少篇である本作では、前作とは正反対の人物として直家が登場する。両作の差はどこから生じたものか。その疑問に取り憑かれたら最後、絶対に本書を最後まで読み通さずにはいられなくなる。作者の術に落ちてしまうのだ。
各話にはミステリー的などんでん返しのプロットが盛り込まれている。短篇集としての構成の謎と各話のツイストの二つで巧みに構築された作品集なのである。登場する大名たちはそれほど知名度が高くないにもかかわらず最後まで読み通してしまえるのは、謎の要素で牽引されるからだ。直家には体が腐っていくという呪いのような病があり、その腐臭が梟雄ゆえの体臭のように全編に漂っている。作品全体を貫く特徴にもなっており、完結編である「五逆の鼓」ではそれがさらに物語を閉じるための最後のピースとしても機能する。そうして見るとまったく無駄のない、精緻なパズルのような構造物だといえるのだ。
ただし、直木賞の授賞対象としてはそこが弱点にもなる。作者は宇喜多直家という人物を一面的にならぬように立体的に描いているのだが、それは現代人の理屈で歴史上の人物を解釈しようとしているという批判にもつながるはずだ。また暗黒面を描くだけではなく主人公を救済しようとしたことは甘さの露呈ともとられかねない。おそらく今回は顔見せということになるだろう。将来ある書き手だけに焦らずとも大丈夫。評価は★★☆。

■西加奈子『サラバ!』(2回目。小学館)
意外だが、西もまだ2回目である。これだけのキャリアがある作家だけに、候補に上がる機会はもっとあっても良かっただろう。今回の『サラバ!』は西の集大成といってもいい大作であり、上がって当然、堂々のノミネートだ。
本作の主人公である圷(あくつ)歩は1977年にイランのテヘランで産まれた。このプロフィールは西自身のものと重なっている。圷家は両親と歩、そして姉の貴子の4人家族だ。しかし幸福な時代は長くは続かない。父親の都合で一家がエジプトに住んでいたとき、父親と母親の間に亀裂が入るからである。母親に引き取られて日本に帰国した貴子と歩は、その旧姓である今橋を名乗るようになる。姉弟のうち歩は容姿に恵まれていたことも手伝って早期に日本社会に馴染んでいくのだが、貴子はそうはいかなかった。弟の目から見た今橋貴子は新興宗教にはまったり、自己承認欲求を満たすために奇矯なアート活動をしたりという「痛い」女性だ。その姉や、他の家族は差し置いて自分が再婚することしか頭にないように見える母と距離をとりつつ、歩はバブル終焉後の日本でそれなりの成功を収めていく。しかしあるとき、彼は思いがけない問いを突きつけられることになるのである。
昭和末期から平成にかけての世相が書き込まれた風俗小説であるのは当然として、重要なのは主人公である歩が家族や世間を見る視線にはこの時代ならではの意識が籠められているという点だ。時代のただなかにいて、その空気を吸っている人間には自明すぎてわからなくなってしまうことがある。それを明らかにするために、一つの時代の鏡として作者はこの作品を書いたのだろう。主人公が西加奈子のプロフィールの一部を分け与えられ、いわば裏返しの自分というようなポジションを与えられているのはそのためだ。西はもっとも信頼できる自分自身の視点を使うことによって、それを裏返すための視点を確保したのである。
題名の意味は上巻で明らかになる。エジプトで圷家がもっとも幸せだった時代にあった出会いの中でその言葉は交わされたのだ。物語の終わりで歩は再びその言葉を口にすることになる。長い時間を経て言葉の背負う意味はどう変化したか。そこが一つの読みどころになるだろう。
上下巻の長い物語だが、分量を必要とする作品でもある。その点を認められれば十分に受賞もありうるはずだ。本命『鬼はもとより』に対しこちらを対抗としたい。評価は★★★☆。

■万城目学『悟浄出立』(5回目。新潮社)
今回ノミネート回数では最多となる。関西の都市が舞台、あるいはモラトリアムの青年が主人公といった過去作品の特徴からはいずれも本作は外れている。しかしこれは、万城目が本来もっとも書きたかったはずの小説なのである。以前エキレビ!で万城目をインタビューした際にも「中島敦とか菊池寛の歴史を題材にした短篇をかっこよく感じるようになって、こういうのが書きたいと思って小説を書き始めた」と語っている。その言葉通り、本書の表題作である「悟浄出立」は、中島敦の短篇「悟浄出世」「悟浄歎異ー沙門悟浄の手記ー」の本歌取りになっている。中島の絶筆となった『わが西遊記』連作の一部をなすとされた作品だ。つまり本書は文芸パロディを企図した短篇集なのである。
「悟浄出立」の沙悟浄は、行動力の塊である孫悟空や、常にマイペースである猪八戒を一行の最後尾から冷ややかに眺める存在である。いわば人生の傍観者だ。その沙悟浄が、自分の人生は自身が先頭を歩むことで拓いていこうと考える結末は、現代に翻訳可能なもののようにも見える。「モラトリアムの終焉」というこれまでの万城目作品の共通テーマは本篇にも見出すことができるのだ。しかしそれだけではない。第二話の「趙雲西航」では『三国志』の有名なバイプレイヤーである趙雲子竜が主人公に抜擢され、故郷を捨てた人間だからこそ感じる屈託が描かれる。ここまでは現代人への置き換えが容易だが、虞美人草の由来になった項羽の愛妾を採り上げた「虞姫寂静」、娘の視点から歴史家・司馬遷を描いた「父司馬遷」などにそうした当てはめを無理に行うのは無用の業だろう。歴史上の人物を用いて作家は自由に想像の羽根をはばたかせているのであり、楽しげな筆致が微笑ましい。ああ、本当に好きなんだな、と感じるのである。
この軽やかさが、選考に当たってはマイナス評価を受ける可能性があるのが残念なところ。重量級の作品ではないので、やや不利ではある。パロディに対しては評も辛くなるはずだ。候補作としての評価は、残念ながら★★☆どまりであろう。
(杉江松恋)