『身体を売ったらサヨウナラ 夜のお姉さんの愛と幸福論』鈴木涼美/幻冬舎

写真拡大

その昔、女が「体を売る」ことは悲劇だったが、昨今はそうとも限らないらしい。それについては「日本の風俗嬢」(中村敦彦/新潮新書)に詳しく、【一般女性が普通の仕事として性風俗を選択し、さして疑問を抱くこともなくポジティブに働いている──これが現実だ】と書いてある。
一方、NHK「クローズアップ現代」では「あしたが見えない〜深刻化する“若年女性の貧困”〜」(14年1月放送)で、子供のために風俗店で働くシングルマザーがルポされていた。このドキュメンタリーの論調は、そこしかないからというものだったが、そこ以外に選択肢があるにもかかわらず、自らすすんで「体を売る」仕事を選んでいる人も増えていて、「身体を売ったらサヨウナラ 夜のお姉さんの愛と幸福論」の作者・鈴木涼美はそのひとりだ。
元新聞社の記者で今は社会学者として活動している鈴木は、この本で、過去、キャバクラやアダルトビデオなどの体を売るーー女性性をお金に換えるお仕事を体験していたことを絡めて、というかその生活ぶりをほぼメインにして、自身の考える愛と幸福について綴っている。
彼女は、経済的にも教育的にも恵まれた家庭に生まれ育ち、自身の容姿もなかなかのもの(本のカバー写真の美人さんはご本人)で、Fカップのバストを売りにもしている。不自由なところがほとんどない。本の中に【弱者にも生きる権利はある、というような寝言を一切の躊躇いなく否定するピンヒールを履いて、私はウィスティンのロビーに到着した】という一文もあって、女性の貧困とは無関係。だからか、筆致はカラッと明るく、そしてどこか冷めている。
体を売る仕事で生きていく著者と、その友人たちが体験した数々の悲喜劇を、時代がわかる具体的な商品名や曲名を挙げ、リアルな会話を盛り込んで、テンポよく書いた文は、一見「セックス・アンド・ザ・シティ」のようなムードがあって、読みやすい。
恋人が体を売っていたことを知った男性の悩みからはじまって、あ、やっぱりそういうことが・・・と思わせたあと、著者の、虚言癖のある外国人男性との交際が語られる。ホストや会社員など、著者をいろいろな意味で通り過ぎていった男性のことも書きつつ、著者の女友達や仕事仲間などについても手厚く書いてある。【クソみたいな男とごみみたいな生活を送ること自体は、女子校でカソリックで戸塚みたいな毎日から彼女を解放するもので】という生活を送る女性、【時価総額1兆円以上の、文句なしの大企業の総合職ギャル】の顛末、年収2億円のおじさんと別れて、年収2000万円いかないくらいの男性に落ち着いた女性、メンヘラちゃんとモテ子ちゃんとそのハイブリッドちゃん、【自分のことを好き(と思ってるのは彼女自身だけなのだけど)】と思っている若いホストと、【自分が本気で好きになった】と思っているホストとの間で揺れる女性、パンツについて熱く語る女性、水商売のスカウトの役割と彼に依存的な恋愛をしている女性、彼氏にリベンジポルノされた女性・・・などなど、この人たちの愛と幸福の形は、そのまま深夜ドラマになりそうだ。著者が鍵をなくして、いろんな人に泊めてと電話した結果、行き着いた先を描いたエピソードなどをはじめとして、なんだか痛い愛と幸福を、著者とその友人たちは、概ね謳歌しているように思える。
だが、忘れてはいけない。鈴木はあらかじめ、【私たちはとっくに、そして十分、罰せられているからだ】と書いているのだ。確かに、ホストクラブで大金使いすぎたり、リベンジポルノされたりとかマイナス面もあるし、書かれていないが、身体的なリスクなんかもあるのではないかと想像する。にもかかわらず、鈴木涼美と彼女をとりまく女たちは、体を売る仕事を選ぶのだ。いったい、なぜ?
「セックス・アンド・ザ・シティ」かと思って読んでいたら、いつの間にか、女子高生の援助交際を描いた村上龍の「ラブ&ポップ トパーズ2」(96年)を思い出していた。特に不幸じゃないが、トパーズの指輪が欲しくて援助交際する女子高生を描いた小説は、庵野秀明監督で映画化(98年)もされ、小説も映画も90年代の時代の空気をよく表していた。83年生まれの鈴木は、ちょうど女性性を売る仕事が悲劇だけではなくなっていく時代に、中、高校生時代を過ごしていたことになる。「ラブ&ポップ」の版元も「体を売ったら〜」と同じ幻冬舎だ。また、当時、女子高生の援助交際をよく語っていた宮台真司とも鈴木は交流があり、本の中にトークショーに一緒に出たことが書いてある。
その頃から20年近く過ぎて、ひどい不況になり、経済格差が激しくなったものの、日本はなおも、お金で愛や幸福を手にできる資本主義社会にある。そこで、自らの体をお金に換えて生きていくことを明るい退廃というアンビバレンツな調子で描く筆者。このエッセイの白眉なのは、時々出て来て、そんな娘の言動をチクリと刺す母親の存在だ。
本によると70年代演劇をやっていたらしいお母さんによって、鈴木の生き方が良くも悪くも相対化される。良くというのは、筆者の言動が決して褒められたものでもないことが語られる点で、悪くというのは、相対化の表現が彼女の母親世代のやり方で、今だともっと複雑な表現を探ってほしかった気がするということ。が、昨今のテレビドラマにメタ表現が増えたことを考えると、今のほうが相対化は取っ付きやすいのかもしれない。
いや、そこは置いておこう。注視したいのは、母親の以下の言葉だ。
【(前略)才で書いたもの、才でつくったものに感動しない。真摯に対象に向き合ってる姿勢とか、本当に毎日毎日観察して書いたものとか、そういう方がよっぽど読みたいよ(後略)。】とか【(前略)やっぱり毎日、カニを観察して観察して水の温度とか気をつけて、それで微妙な変化とかについてまじめに調べて、新しい知見を少しずつ見いだして、みたいなところでしか磨かれないんじゃないかね(後略)。】
この意見を真面目に訊いた結果、前述した、具体的な固有名詞群や、たわいない深夜のおしゃべりなどが、その世界に生活している人の観察の結果として鮮やかにこの本で描かれているとは言えないか。
シャネルとユニクロ、リッツ・カールトンとパセラなど、贅沢なものから庶民的なもののどちらをも行き来するのと同じに、昼と夜を行き来する人間たちの頭の中を、良いとも悪いとも判断しないで、ただひたすら饒舌に書き記したこのエッセイは、その文体が、時に、いわゆる巧い文学的な表現だったり、時に、過去の規則を気にしない現代口語的だったり、そこもまた揺らいでいることで、
ひとつの知見に接近している。

もっとも、体を売ることがどの程度までのものかも重要な点ではないだろうか。アダルトビデオでどんなに淫らな行為をしてもそれは演技であり、この本の中でも比較対象として出て来る東電OLのような存在──風俗で不特定多数の男性と体を触れ合わせる仕事とはリスクは異なる。鈴木は、そこまでの仕事はやっていないようで、もしそこまでやっていたら、考えることもまた違うのかなという気もするのだが、どうなんだろう。
(木俣冬)