泣かないのか?泣かないのか名優たちのために? 蟹江敬三、斎藤晴彦…伝説「日本のアングラ演劇」1

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みなさん、エキレビカレッジ「夏の集中公開講座」へようこそ! 昨年は「タモリはどう語られてきたか」というテーマで講座を行ないました。さて、今年は……ということで色々考えたんですけど、「日本のアングラ演劇」をテーマに3回にわたり語って見ようかなと思います。

まあアングラ演劇という言葉は、あとで話すようにちょっと注意深く使う必要があるんですけど、ここではひとまず、1960年代後半から70年代前半にかけて、既存の新劇へのカウンターとして登場した実験的、前衛的な演劇運動とでも便宜上定義しておきましょう。

私がこのテーマを選んだのはまず、今年に入って、あの時代の演劇界で活躍した人たちが立て続けに他界したからです。名前をあげるだけでも、アングラ系の劇団出身の俳優である蟹江敬三や斎藤晴彦、60年代から舞台美術を手がけ、前衛劇でも仕事の多かった朝倉摂、演劇実験室「天井桟敷」を主宰した寺山修司の元妻で女優の九條今日子、それから蟹江主演の舞台や天井桟敷の公演で使われた、伝説の劇場「アートシアター新宿文化」の支配人で、映画・演劇プロデューサーの葛井欣士郎といった人たちが亡くなっています。

今回の講座では回を追って、アートシアター新宿文化、天井桟敷、さらに斎藤晴彦の所属した「劇団黒テント」について見ていこうと思います。さっそく第1回、アートシアター新宿文化をとりあげるにあたり、まずこれを見ていただけますか。

ええと、これは10年以上前に私が東京・高円寺の古本屋で買った本で、『お前はただの現在にすぎない』という1969年に出版されたテレビ論です。著者の萩元晴彦・村木良彦・今野勉は番組制作会社・テレビマンユニオンの創立メンバーで、刊行当時はTBSのディレクターでした。まあその内容はひとまず置くとして、私が買ったこの本には、こんなものが挟まれていました。

何かといえば、フランスの映画監督、J.L.ゴダールの「中国女」が、ナイト・ロードショウで上映されたときのチケットです。この上映場所こそアートシアター新宿文化でした。

裏面には入場を示す日付印が押されていて……半券なので途中で切れちゃってるんですが、「44.5.」までははっきり確認できます。昭和44年=1969年5月ということですね。「中国女」の公開データを確認すると、日本での封切は1969年5月30日とあるので、このチケットの持ち主は公開初日かその翌日に鑑賞したのでしょう。

アートシアター新宿では「中国女」以前にも、「気狂いピエロ」や「男性・女性」といったゴダール作品が上映されています。政治的なテーマを積極的にとりあげたゴダールは、当時世界中の若者たちに熱烈に支持されていました。

もとの本の持ち主は、とくに考えもなしにしおり代わりにチケットを挟んだのかもしれません。それでも当時のゴダールやアートシアター新宿文化の位置づけを知るにつけ、私は、この本とチケットという組み合わせから、1969年という時代の熱気を感じ取ってしまうのです。

■アングラという言葉を嫌った支配人
いまの話でもわかるように、アートシアター新宿文化は本来は映画館です。もともとは新宿文化と呼ばれ、戦前は東宝の封切館で、戦後は外国映画の名画座などとして使われていました。それが装いも新たにアートシアター新宿文化として開場したのは1962年4月のこと。その支配人として、三和興行という会社から葛井欣士郎が赴任します。

その前年、実験性や芸術性の純度が高くて、商業ベースに乗りにくい映画を配給するため、日本アート・シアター・ギルド(ATG)が創立され、その社長に三和興行社長の井関種雄が就任していました。井関はATGの劇場の一つとして三和の持ち小屋だった新宿文化を提供したのです。

1925年生まれの葛井は、青年期から憧れていたプロデューサー業に、30代後半になって手を染めることになりました。外国映画を試写で観たなかから選んでスクリーンにかけるばかりでなく、国内の映像作家……たとえば松竹をやめて独立プロで制作を行なっていた大島渚から作品を持ちこまれ、上映の機会を与えたりもしました。

葛井はその新宿文化の舞台を、映画の上映終了後の夜9時半から演劇の公演にも使えるようにします。初の演劇公演は劇場オープンの翌年の1963年、劇団「雲」による「動物園物語」(エドワード・オルビー作)でした。「雲」は、新劇の三大劇団の一つ「文学座」を脱退した俳優たちが結成した劇団です。

ここで注目したいのは、新宿文化では、「雲」のほか、やはり新劇の三大劇団の一つ「民芸」など新劇の劇団の上演が当初より多かったということです。冒頭に話したように、いわゆるアングラ演劇は既存の新劇に対抗して出てきたとされます。加えて、葛井がのちに寺山修司の「天井桟敷」や蜷川幸雄の「現代人劇場」など、アングラ演劇にカテゴライズされるような劇団を積極的にとりあげることを思えば、こうした新劇とのかかわりは意外ともいえます。しかし、じつのところ葛井はアングラ演劇という言葉に違和感を持っていました。以下は彼の証言です。

《私は自分がやった芝居に対してアングラという言葉を使ったことはないんです。アングラ演劇というものは勝手についた名前であって、そんなものはありえないんです。外国で言えば、オフブロードウェイであり、アンチテアトルなんです。だから私はアングラ演劇なんてものをやった覚えは一切ない。あれは正規の反体制の芝居であって、アングラと言われるものではないと確信してます》(毎日ムック『シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍・“狼”たちの時代1969-1975』)

葛井にしてみればきっと、新劇の劇団であれアングラの劇団であれ、新宿文化で上演される演劇はすべて、実験的であり、ときには反体制的な内容をはらんだものだという認識だったのでしょう。

さて、新宿文化の演劇公演は当初、外国の劇作家の翻訳物が大半を占めたものの、1965年に三島由紀夫の「近代能楽集 班女・弱法師」が上演されたのを境に、徐々に国内作家の作品もかけられるようになります。ちなみに1967年に新宿文化の地下に開設された劇場「蝎座」は、葛井が頼んで三島に命名してもらったものでした。

いわゆる小劇場・アングラ系の劇団では、1966年に早稲田小劇場が「門」(別役実作・鈴木忠志演出)を上演したのを手始めに、同年末には寺山修司の戯曲「〈わが犯罪学〉アダムとイブ」が「人間座」によって上演されています。寺山は翌67年に自分の劇団・天井桟敷を結成します。新宿文化では、その第1回公演「青森県のせむし男」の再演に続き、第3回公演「毛皮のマリー」が初演されました。いずれも主演は丸山明宏、現在の美輪明宏です。

天井桟敷とならび、アングラ演劇の代表格だったのが唐十郎の「状況劇場」です。唐もまた新宿文化での公演を望んだものの、葛井はそれを断っています。新宿の花園神社に紅テントを張って上演されていた状況劇場の芝居は、劇場でやる芝居ではないとの考えからでした。唐が初めて新宿文化の舞台を踏んだのは1970年、「愛の床屋」というレコードを引っ提げて開いたリサイタルです。このとき、状況劇場の俳優たちは劇場に観客を無理やり押し込み、600の席のところに倍の1200人が入ったそうです。葛井は、恐ろしくて、結局このリサイタルを見なかったとか(葛井欣士郎『遺書』)。

■蜷川幸雄の演出家デビュー
アートシアター新宿文化では1969年、一人の演出家が新宿文化で本格デビューを果たしています。それが蜷川幸雄です。

彼はもともと「青俳」という劇団の俳優でしたが、1967年に青俳の稽古場公演で初めて演出を手がけていました。このとき主演を務めたのが蟹江敬三です。翌68年、蜷川は、劇作家の清水邦夫が書き下ろした「真情あふるる軽薄さ」の上演を劇団に申し入れたのですが、却下されてしまいます。そこで彼は、蟹江や石橋蓮司といった若手俳優十数人を引き連れて青俳をやめ、新たに「現代人劇場」という劇団を結成しました。

新宿文化で初演された「真情あふるる軽薄さ」では、役者たちによって舞台だけでなく、客席にまで長蛇の列がつくられました。劇中、それを蟹江演じる青年が壊そうとしたあげく、機関銃で人々を皆殺しにします。ラストでは、青年が機動隊そっくりの「整理員」に撲殺されるとともに、観客もまた場内の方々に隠れていた整理員たちに取り囲まれるという演出が仕掛けられていました。

ちょうど学生運動が激化していた頃で、この芝居で演じられたことは現実にも街頭や学園で繰り広げられていました。それだけに、「真情あふるる軽薄さ」の演出は、観客にリアリティをもって受け止められました。なかには劇中の整理員を本物の機動隊員と間違えて体当たりする観客がいたり、客席でジグザグデモが始まったこともあったといいます。

舞台と客席、あるいは劇場の内と外との境界を消すというのは、当時の前衛劇でよく試みられたことです。テント芝居では、劇中でテントの裾を跳ね上げたり、切って落とすと、外の現実の光景が広がる、というシーンがお約束のように用意されていました。そういえば、2001年に「真情あふるる軽薄さ」が32年ぶりに蜷川の演出で再演されたときも、そのラスト、会場である渋谷のシアターコクーンの舞台の後ろの扉を開いて、劇場の外の光景を見せていたのを思い出します。

■新宿の変貌とアートシアター新宿文化の終焉
現代人劇場はその後も、新宿文化で毎年秋に公演を行ないました。しかし1971年、「劇団員相互の創造的緊張感が薄らぎ、このままでは前に進めなくなった」と突如解散します。蜷川は翌72年にあらためて「櫻社」という集団を立ち上げるのですが、これも長続きしません。同年秋の、新宿文化での旗揚げ公演「ぼくらが非情の大河をくだる時」に集まった観客はすっかり様変わりしていました。客のほとんどはもはや学生運動を知らない世代になっていたのです。

1973年秋の公演「泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?」の楽日をもって、蜷川たちは新宿からの撤退を宣言します。蜷川は翌74年、日生劇場での「ロミオとジュリエット」の演出を東宝の依頼で手がけ、商業演劇に進出します。劇団員の多くはこれに反発、ついに櫻社は解散したのでした。

この間、新宿の街も大きく変貌していきます。70年代に入ると西新宿に超高層ビルが建ち始め、新宿は若者文化の発信地から副都心へと変わろうとしていました。そのなかで新宿文化も大きな曲がり角を迎えます。映画産業全体が斜陽を迎え、ATGも累積赤字が膨らむなか、葛井はもしATGが存続したとしても、アートシアターは崩壊、消滅すると予感していたといいます。決定的だったのは1974年、大ヒットしていた「エマニエル夫人」の上映館拡大のため、新宿文化でも公開予定の映画に代わり上映するとの話が持ちあがったことです。その公開を控えていた映画というのは、寺山修司監督の映画「田園に死す」でした。結果的に「田園に死す」は予定通り新宿文化で封切られたものの、騒動を受けて、葛井は「あーこれでおしまい」だと思ったといいます。

葛井は1975年の元旦、大晦日恒例となっていた歌手・浅川マキのオールナイトコンサートを見届けて新宿文化を去りました。彼が新宿文化で最後に企画した「唐版・滝の白糸」は、75年3月、大映の多摩川撮影所に大規模なセットを組んで上演されます。脚本は唐十郎の書き下ろし、それを蜷川幸雄の演出で、人気絶頂にあった沢田研二と、状況劇場の看板女優・李礼仙(現・李麗仙)が初共演しました。ほかにも舞台美術を、新宿文化の演劇公演にもたびたびかかわってきた朝倉摂が担当するなど、このとき集まった顔ぶれには60年代演劇の集大成という観があります。ジュリーの出演については、新宿文化でオールナイトコンサートを開いたことのある内田裕也がすべてお膳立てしてくれたそうです。

映画と演劇、さらにファッションや音楽、美術とあらゆるジャンルのつくり手たちが集まったアートシアター新宿文化。それは時代が生んだ部分も大きいでしょう。しかしやはり葛井欣士郎という名伯楽抜きにはありえなかったはずです。新宿文化には、地方の高校生たちも聖地巡礼のようにやって来ました。葛井はときには声をかけたりしながら、ロビーで年少の観客たちを見ていたといいます。そのなかには、のちに演劇や映画関係者も少なくありません。葛井は偉大なる“教育者”でもあったのです。

*当記事執筆にあたっては、本文中にあげた書籍のほか、葛井欣士郎『アートシアター新宿文化』なども参照しました。
(その2につづく)
(近藤正高)