平田オリザ(ひらた・おりざ)  劇作家・演出家、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授、四国学院大学客員教授・学長特別補佐、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場芸術監督。1962年生まれ。1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞、2003年『その河をこえて、五月』で第2回朝日舞台芸術賞グランプリ受賞。フランスを中心に世界各国で作品が上演・出版されている。  著書に『演劇入門』『わかりあえないことから』(以上講談社新書)、『幕が上がる』(講談社)等。ドキュメンタリー映画『演劇1,2』も公開中。

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「ねえ○○さん、これコピーとっておいて」。職場でよく耳にするこのフレーズ。男性の上司が部下にかける言葉としてはごく自然に響くが、もしこれが、女性の上司が男性の部下に指示したのだとしたらどうだろう? 少しきつい感じがしないだろうか?
「日本語ではいまだに、女性の上司が男性の部下に命令するときの適切な言葉というものが固まっていないんです」と指摘する平田オリザ氏。「演劇とソーシャルメディア」というテーマで幕を開けたこの対談は、意外にも「日本語の特異性」にまで行き着いて――。

「みんなちがって、たいへんだ」という認識を持つ

武田 日本人の同質性が高かったからか、企業のマーケターの中にも「消費者のことを知らないなんて恥ずべきことだ」と思っている方が多くいらっしゃいます。国際調査で海外の消費者を対象にすると「知らなくて当たり前」と思えても、自国日本の消費者が対象になると「知っているのが当然」となってしまいます。

 ソーシャルメディアを観察していればわかりますが、これほど多様な生活者のリアリティを、全部知ることなどできるはずがありません。「私は知っている」というのは明らかな誤認です。

平田 まったく同感です。看護師や介護福祉士を目指す学生の中にも、「患者さんや障害者の気持ちがわからない」と悩んでしまう子がいます。真面目な子ほどその傾向がある。

 でも、患者さんだって、障害者だってみんな異なる個性を持っている。わからないのが当然なんです。

 僕は「当事者じゃないんだから、気持ちを全部わかることができないのは当然だ。でも君たちにも、患者さんや障害者の方の苦しみ、孤独、あるいは喜びで、共有できる部分があるんじゃないのか」と聞きます。

武田 たとえ一部であっても、共有できる部分は必ずある。

平田 そう。同一化できなくても、共有できればいいというと、楽になってくれる子は多いですね。

武田 多様なリアルがあることを認識してもらうわけですね。

平田 そうです。でも、これを学校現場で言うと、今度は、必ず学校の先生方は「あっ、金子みすゞの『みんなちがって、みんないい』ですね!」とおっしゃる。違うんですよ。「みんなちがって、たいへんだ」という話なんです(笑)。

武田 たいへんですよね(笑)。高度経済成長期は、消費者をひとくくりに捉えても、それで商品も売れていました。テレビも、冷蔵庫も、日本中のみんなが欲しがっていたのですから。「人並みになる」というのが合言葉でした。でも今は、そんな「消費者の全体」は存在しません。

平田 高度経済成長期の成功体験があまりに強かったので、企業の体質や仕組みが、いまだにそれをもとにしていますよね。この停滞した状況を打破する方法はみんなが欲しがるヒット商品を出すことだ、と思っている。その前提自体がもう間違っています。

 昔は、冷蔵庫を買えば日本の家庭から食中毒がなくなったし、洗濯機を買えば主婦のあかぎれが一掃された。新しい家電を買うことで、目に見えて生活が豊かになりました。明らかな幸せがそこにはあったんです。でもいま、5センチ薄いテレビに買い換えたからといって、そんな幸せじゃないですよね。

武田 5センチも薄くするのは、大変な企業努力が必要です。しかし、それを求める消費者がいる一方、テレビは厚くてどっしりしているほうがいい、という消費者もいるのが現在の市場です。

平田 便利さやかっこよさって、人それぞれなんですよ。もう、ひとくくりにされた「消費者」をいっぺんに幸せにすることはできません。

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