国内外で俳優として活躍する、森崎ウィンさん(36)。2018年に公開された、スティーブン・スピルバーグ監督作『レディ・プレイヤー1』でハリウッドデビューを果たし、作中の「俺はガンダムで行く」というセリフは大きな話題となった。この秋には舞台『SPY×FAMILY 2 爆弾犬篇&豪華客船篇』でロイド・フォージャー役を前作から引き続き演じる。

【画像】ミャンマーに住んでいた幼少期の森崎ウィンさん

 そんな森崎さんは、ミャンマーで生まれ育ち、10歳からミャンマー人の両親と共に日本で暮らし始めた。今回のインタビューでは、森崎さんの生い立ちから、芸能界に入るまでの道のりを聞いた。(全3回の1回目)


森崎ウィンさん ©深野未季/文藝春秋

「日本に住む」と言われたときは純粋に怖かった

--森崎さんはミャンマーご出身ですが、幼少期はどのような暮らしをされていましたか?

森崎 両親は日本で働いていたので、祖母と一緒に暮らしていました。祖母は家で英語を教えていたので、いろんな生徒さんが家を出入りしていたんです。それもあって、親族は祖母しかいませんでしたが、僕の感覚としてはひとつの家に大家族で住んでいたような気分でした。

--10歳からは日本で生活を始められたとのことですが、どのような経緯でミャンマーから日本に来ることになったのでしょうか?

森崎 僕が10歳になるときに、両親が里帰り出産のためにミャンマーに来たんです。そこから、弟も生まれるし、日本にいた方が子供たちの未来のためにもいいよね、という両親の判断のもと、日本に来て4人で暮らすことになりました。

--「これから日本に住むんだよ」と言われたときのことは覚えてますか?

森崎 覚えてます。小学2年生ぐらいから、年に1回ぐらい、日本に遊びに行っていたんですが、いざ「日本に住む」と言われたときは、純粋に怖かったです。祖母からは、「家族と一緒に住むのが定めだ」と言われていましたが、ずっと一緒に暮らしていた祖母と離れる寂しさもありましたね。

--いきなり日本に住むとなると、言葉の不安などもあったかと思います。日本に移住してからは、公立の小学校に転入したんですか?

森崎 普通の公立の小学校に入りましたね。うちは別に裕福ではなかったので、インターナショナルスクールに行ける余裕もなくて。そのときは、「ウィンです。よろしくお願いします」と「ありがとうございます」ぐらいしか日本語を喋れなかったんです。でも、毎日どこに行っても日本語が溢れているので、公立の小学校にいたからこそ、日本語を習得するのは早かったと思います。

--日本語を習得するうえで、環境のほかに大きな手助けになったものはありますか?

森崎 Eテレで放送されている番組は、語学習得にすごく役立っていたと思います。ちょうど学校から帰ってきたタイミングで、『おじゃる丸』とか『忍たま乱太郎』がテレビで流れていたんですよ。そういうアニメを見て、知らない間に日本語を覚えていたんじゃないかな。言葉が全部分からなくても、すっと入ってきて見ていて楽しかったです。

--日本語を学んでいて、難しいなと思うところはありましたか?

森崎 当時は、「同じ音なのに、なんでひらがなとカタカナの2つがあるんだろう」とか思ってましたし、漢字も難しかったですね。でも今は、子どもの頃とはまた別の日本語の難しさに直面しています。

 言語の本当の難しさを知るのって、その言語がある程度分かってからだと思うんですよ。大人になって、自分が発する言葉により責任をもつ必要が出てきたからこそ、自分でSNSを更新するときの言葉の並べ方とか、誰かに何かを伝えるときの難しさを感じるようになった気がしますね。

ずっと続けていたサッカーが、言語の壁を越えるきっかけに

--小学校での日々は、大変なことも多かったですか?

森崎 それはもちろん、沢山ありました。日本に来る前は、漠然と「どうなるんだろう」と思っていたんです。いざ日本で生活を始めてみると、「こんないじめがあるんだ」とか「俺、めちゃくちゃひとりじゃん」みたいに具体的な怖さに直面していきました。

 当時は、外国人が転入してくることってあまりなかったと思うんですよね。だから、同級生にとっては、「急に入ってきた異物」みたいな感じだったのかもしれません。みんなの輪に入ろうとすると蹴られたり、とにかく仲間外れにされて。それで屋上で1人で泣いたりもしていましたね。もちろん先生は気を使ってくださっていましたが、24時間見守るわけにもいかないじゃないですか。

--ご両親に学校での出来事を相談されたりとかはしましたか?

森崎 うちはめちゃくちゃ厳しかったので、「学校に行かないならミャンマーに帰れ」と言われていたんです。僕も僕で、立ち向かうしかなかったので、学校には行っていましたね。

--そこで学校に行けるのがすごいと思います。

森崎 僕は負けず嫌いなんですよ。だから学校に行き続けられたんだと思います。あと、転入してから1年ぐらい経ったら、僕をいじめていた当人が、逆に僕をいじめから守ってくれるようになったんですよ。

--そうなるまでに、何があったのでしょう?

森崎 サッカーがきっかけでした。僕はミャンマーにいた頃からサッカーをやっていたので、日本に来てからもサッカークラブに入ったんです。僕をいじめていた子もサッカーをやっていて、結果的にサッカーを通じて距離が縮まっていったんですよね。スポーツは言語とか文化のハードルを越えるんだなと思いました。

 日本に来て最初はつらかったし、逃げ場もなかったですが、最終的には本当に僕は周りの人に恵まれていたんだなと思っています。

中学2年生で芸能界へ…最初は「部活動みたいな感覚だった」

--芸能界に入ることになったきっかけは?

森崎 中学2年生のときに、今の事務所にスカウトされたんです。その時期はスカウト詐欺がすごく流行っていたので、一瞬自分のところにも来たかと思いましたね(笑)。

--スカウトされたタイミングで、表現活動にはすでに興味はあったんですか?

森崎 それまではサッカー選手になりたいと思っていました。ただ、14歳ってまだ将来のことについて曖昧だったりするじゃないですか。僕もそうで、やりたいことってなんだろうと考えていた時期でもあったんです。

 事務所に所属してからは、週1でレッスンを受けていて、気がついたら男性ボーカルグループに入ることになり、音楽と出会いました。それで音楽活動をしながらオーディションを受けて、受かった映画とかドラマに出させていただいていましたね。

 高校2年生のときに『学校じゃ教えられない!』というドラマで俳優としてデビューしたんですが、同世代の人たちも多くて現場は楽しかったです。ただ最初は、プロというよりは、部活動みたいな感覚ではありました。でも、音楽も演技もとても楽しかったんですよね。その楽しさを知ってしまった以上、この業界で売れたいなと思うようになっていきました。

バイトをしながら、俳優業に向いているのか自問自答していた

--その気持ちは、ご自身の負けず嫌いな性格から来ているものもあるのでしょうか?

森崎 いや、それだけじゃ上手くいかないのがこの業界ですし、当時はまだ表現をする意味を何も持たずにやっていたんですね。バイトをしながら、自分はこの仕事に向いているのか自問自答をする時期もありました。

 そもそも、プロとしてのあり方を知らずに、自分の持っているものだけで、オーディションで勝負しようとしていたんです。何かを獲得して、そこから自分の表現の幅を広げようという考えがなかった。何をすればいいのかが分かっていなかった、と言った方が正しいかもしれないですね。

 とにかくバイトをして、人としての生活を営むのに精一杯な中で受けたオーディションで受かれば、「映画の仕事が決まったので、1ヶ月バイト休みます」みたいな日々を送っていました。

--ちなみに、どんなバイトをされていたんですか?

森崎 いろんなバイトをしていました。歌舞伎の公演などの誘導係をしたり、引っ越しの仕事や、晴海埠頭で誰かが捨てたガムの跡を取ったりもしていました。最終的には、父親の知り合いの焼肉屋さんで長くバイトしていましたね。そのお店の店長さんがすごく僕の仕事に理解があって、急に俳優業の関係で休んでも「しょうがないからいいよ」と言ってくれて。周りの人に助けられて、どうにかやっていましたね。

 そんな中で、たまたま『レディ・プレイヤー1』のオーディションを受けることになったんです。

「すごい、なんて人だ」日本人役のオーディションで「ミャンマー人です」と明かした森崎ウィン(36)にスピルバーグ監督がかけた“器の大きすぎる一言”〉へ続く

(ねむみ えり)