移住90年、1万人の日系人が暮らすパラグアイ…日本語教育のため開校した学校は日本文化を伝える地域の拠点に
南米パラグアイに日本人が移住してから今年で90年を迎え、現在約1万人の日系人が暮らす。
最初の移住地では5世まで世代が進み、当時を知る1世は4人だけとなった。子孫の日本語教育のため開校した学校は現在、非日系のパラグアイ人が半数を占め、日本文化を伝える地域の拠点となっている。(ラ・コルメナ 南部さやか、国際部 三品麻希子)
苦難の歴史
首都アスンシオンから南東約130キロのラ・コルメナ移住地。1936年8月、日本から最初の移住者として11世帯81人が到着した。鈴木やしまさん(92)は38年3月、4歳の時に長野県から家族で移住した。
家族は綿作に取り組み、「3年後に日本へ帰る」と決めていたが、「41年に太平洋戦争が始まり、帰国はかなわなかった」。パラグアイは日米開戦後に日本と国交を断絶し、移住地を政府の監視下に置き、住民の外出を制限した。鈴木さんらが通った日本語学校は授業を禁じられ、戦後には用地や教材も没収された。

伝染病が流行し、鈴木さんの父親は49歳で亡くなった。一家は現地で生き抜く覚悟を決め、鈴木さんは19歳の頃に日本人移住者と結婚。兄は果樹栽培の普及に尽力した。
52年の対日講和条約で両国関係が回復すると、日本人移住も再び始まった。日本語学校が正式に再開したのは69年。現在は日系4世のひ孫2人が通う。鈴木さんは「90年間受け継いだ日本語を絶やさないでほしい」と願う。
福島県出身の金沢代津子さん(88)も1世で、41年9月、家族5人で移住した。「苦難の連続だった」と振り返る。両親はピーマンやナスを栽培したが、現地では野菜を食べる習慣がなく、思うように売れなかった。その後、首都への道路整備などで販路が広がり、野菜は売れるように。野菜を広めた功績は、日本人への信頼の礎となった。金沢さんは、自分たちの手で暮らしを築いた移住者の苦労を「忘れないでほしい」と話す。

秋篠宮ご夫妻は19日にパラグアイに到着し、22日にはラ・コルメナで鈴木さん、金沢さんと面会される予定だ。
架け橋に
日本語学校には現在、幼稚園児から中学生まで計53人が通い、半数の25人が非日系だ。8月上旬に訪れると、校内では児童や生徒が斉唱する君が代が響いた。
日本語を話せない生徒らが増えたため、2011年以降は、日本の国語教科書から、外国語として日本語を学ぶ教材に切り替えた。
非日系のガビラン・ダイシーさん(14)は、日本のアニメをきっかけに日本語に興味を持ったといい、「あこがれの日本で働きたい」と勉強に励む。日系4世で小学6年の三井治斗さん(12)は「日本語を話せることが誇らしい。将来は日本とパラグアイをつなぐ仕事がしたい」と語った。
日本式のしつけを通じ、規律正しい生活習慣を身につけさせたいと入学を希望する非日系の保護者も多いという。金沢克江校長(55)は「非日系の生徒が現地で日本の良さを伝える存在にもなっている。現地と融合して日本文化を未来につなぐ教育をしたい」と話した。
農業で貢献 親日国に
中南米に日本人の移住が拡大した背景には、明治以降の日本の人口増や農村部の貧困に加え、農業開発の担い手を求める中南米側の事情があった。中南米では現在、約310万人の日系人が暮らす。

パラグアイは、ブラジルが日本人移住を制限したことから、新たな移住先となった。戦後は1959年の日本パラグアイ移住協定を機に移住が拡大した。現在、日系人は約1万人で、ブラジル(約270万人)やペルー(約20万人)より少ないが、パラグアイの農業発展を支えた功績から「親日国」とされる。
特に大豆栽培では、世界有数の輸出国となる道筋をつけた。国際協力機構(JICA)も「不耕起栽培」と呼ばれる技術の導入などで増産に貢献した。8月には、日系2世でアスンシオン国立大化学部教授のフリオ・イエヒサさん(43)を中心に、神戸、京都両大との共同研究が始まった。「コムギいもち病」に強い小麦品種を開発し、パラグアイでの普及を目指す。
一方、若い日系人と日本とのつながりは薄れつつある。外務省は23年、「中南米日系社会連携推進室」を設置。JICAと協力し、若手日系人の日本への招へいや国際会議を通じて、日本への理解を促している。
中谷好江・前駐パラグアイ大使は「日系人は現地社会の一員として活躍し、日本の存在感を高めている。食料や資源エネルギーが豊富な地域でもあり、積極的な連携を進めたい」と話す。
