なぜオットー1世は”敵に有利な平原”をわざわざ決戦の場に選んだのか…国の興亡をかけた「レヒフェルトの戦い」の奇策

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第41回

『優勢だった反オットー軍が犯した、東フランク王国の‟絶対的なタブー”…オットー1世による「逆境の打開」と反乱軍への「冷酷な処罰」』より続く。

アウクスブルクを攻めるハンガリー

しかしだからといって国内が安定したわけではない。オットーがザクセンに戻ったのも、ヴィヒマン(若)とエクベルト兄弟がスラブ諸族を率いて、彼らの叔父でありかつ宿敵でもあるヘルマン・ビルングを攻め立てていたからである。

オットーがいざヘルマン救援に向かおうとしたとき、弟のハインリヒからハンガリーがバイエルンに侵入してきたという一報が入った。ハンガリーの標的は今まで常にオットーに忠実であった司教ウルリヒの牙城アウクスブルクであった。

ハンガリーはアウクスブルクを包囲した。

オットーは対スラブの戦いのため、ザクセン軍の全軍を率いることができず、少数精鋭部隊を引き連れて再び南に向かった。

オットーの行軍中、多くの軍団が合流してきた。まずは赤毛のコンラートが率いるフランケン一軍団。リウドルフの反乱に加担したコンラートは汚名返上に必死であった。次に大公ブルヒャルトが指揮するシュヴァーベンの2軍団。ブルヒャルトはシュヴァーベン大公となっての初陣である。意気盛んである。

さらについ最近、オットーに服従したボヘミア大公ボレスラフが選り抜きの1000名を率いてやってきた。主として輜重(兵器や食糧)を担当した。これに後にバイエルンの3軍団が加わる。オットーの一軍団を加えて計8軍団が揃う。ロートリンゲン軍だけはハンガリーの別動隊によってくぎ付けとなり合流がかなわなかった。そしてリウドルフもこの乾坤一擲の決戦に加わっていない。1年前、ハンガリーと手を組んだことが懸念されたのだろう。

アウクスブルク落城を防いだ勇者

ローマ時代からアウクスブルクは市壁が低く、円柱の堡塁もなかった。レヒ川に至る東門は崩壊寸前である。アウクスブルクは落城間近かと思われた。門から打って出たウルリヒ自ら指揮する騎兵の勇敢さだけが落城を何とか食い止めたのである。この時の馬上のウルリヒのいでたちについては2説ある。

彼はストラ(司教の祭服用頸垂帯)だけを羽織っていたという説と、ストラの上に甲冑と兜で身を固めたという説である。いずれにせよ彼は勇猛果敢であった。四方八方からの槍と石の攻撃をかわし、敵に一指も触れさせずに無傷のまま城内に戻ってきた。彼はさながらアウクスブルクの守護聖人であった。事実、彼は993年に列聖されている。

しかし個人の力量には限界がある。アウクスブルクは落城を覚悟した。

ところが翌日ハンガリー軍が巨大な突き棒を使って壁の破壊に取り掛かったとき、突然、ホルンが鳴り響いた。するとハンガリー全軍はアウクスブルクの包囲を解きレヒ川に向かった。

どうしたのか?

生前、反オットー陣営として鳴らしたアルヌルフ2世の息子ベルトルトが、ハンガリーの指揮官に仇敵オットー軍の接近を知らせたのである。ハンガリー軍はオットー軍との会戦に臨んだ。場所はレヒ川沿いの平原レヒフェルトである。

不利な地形で戦に打って出たオットー

戦場となったレヒフェルトはアウクスブルクの南、幅7キロの平原で、騎馬戦を得意とするハンガリーが断然有利な地形である。しかしオットーはあえてこの地を決戦に選んだ。もともとハンガリーは大規模な会戦を好まない。その抜群の機動力で少しでも不利となればさっと引きあげる。このヒット・アンド・アウェー戦法を封じ込めるには、餌が必要である。その餌がここレヒフェルトである。

互いの兵力の数はよくわかっていない。12世紀の皇帝年代記にはハンガリー軍12万8000、オットー軍2万6000とあるが、いくらなんでもこれは多すぎる。オットー軍の無敵を強調するために話を盛りに盛った数である。ハンガリー軍1万7000、オットー軍8000といったところが妥当ではないか。いずれにせよ兵力差は歴然としている。しかも戦場はレヒ川沿いの平原である。ハンガリー軍が敵を一気に捻り潰してやる、と意気込んだとしても不思議ではない。

こうして955年8月10日、殉教者聖ラウレンティウスの日、「レヒフェルトの戦い」が始まった。オットーにとって一か八かの戦いであった。それゆえオットーは戦いの前に「神がこの日、我々を慈しみ、勝利を与えてくだされば、私はこの勝利を称えるためにメルゼブルク司教区を設立し教会を建立いたします」と涙ながらに願をかけたのである。

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