淡島千景(新潮社1958年撮影)

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 1924年2月24日、淡島千景さんは東京で生まれた。今年で生誕102年を迎える昭和の大女優は、いまだ多くの映画ファンを魅了する存在だ。命日の2月17日にはその私生活にフォーカスした記事をお届けしたが、今回は映画女優としてのキャリアを辿ってみよう。映画解説者の稲森浩介氏が代表作とその魅力を綴る。

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【写真】吹き抜けのある豪華邸宅でソファに横たわり…1957年、東宝の看板女優だった頃の「淡島千景」さん

宝塚を「馘首」される

 淡島千景は1924(大正13)年、東京に生まれる。近くに松竹の名監督・島津保次郎の家があり交流があったという。小学生の時に観た宝塚の舞台が忘れられずに、1939年に宝塚音楽歌劇学校に入学、1941年には月組に配属された。

淡島千景(新潮社1958年撮影)

 戦後、男役の久慈あさみ、南悠子とのトリオが人気を博し、娘役のトップとなる。この頃の淡島の熱烈なファンとして手塚治虫が有名だ。代表作「リボンの騎士」の主人公・サファイアは、淡島が男役をやった時をモデルにしたという。

 淡島は、娘役は長くできないことと、先輩の月丘夢路の誘いもあり、松竹に入社することを決意する。しかし騒動が起きた。宝塚はトップスターを手放したくなかったのだろう、辞表を出していたのに「馘首」、つまりクビにしたのだ。

 後に淡島は「稽古場に大きな掲示板があってそこに『右の者、都合により馘首』と貼り出されました。(グループの)東宝ではなく、松竹に入っちゃったからなおさら馘首なんです」と語っている(「文藝春秋」1995年12月号)。

「アプレゲール」女優誕生

 松竹に移籍した1950年、淡島はさっそく「てんやわんや」でデビューする。流行作家・獅子文六の原作で、監督は渋谷実だ。

 東京と四国・宇和島が舞台で、喜劇でもあり現代風刺劇でもある。淡島は冒頭からいきなりビルの屋上で日光浴をしている姿で登場。セパレーツ水着とサングラスという出で立ちで周りを圧倒する。佐野周二が演じるおっとりとして気の弱い会社の同僚に、「酒を飲みに行こうよ!」とか「結婚して」と迫り完全に主導権を握っている。くるくると変わる表情や素早い動きなど新人とは思えない演技で、第1回ブルーリボン賞演技賞を受賞した。

 翌年、原作も監督も同じ「自由学校」(1951年)に出演する。流行のファッションに身を包み、情けない婚約者の佐田啓二を振り回す役だ。佐田の背中を馬跳びで乗り越えたり、脱げた靴をはかせたりと「アメリカナイズ」された女性を演じている。これまで日本映画界にはいなかった新しいコメディエンヌの登場でもあった。

 淡島はこの2作で「アプレゲール」女優と呼ばれるようになった。アプレゲールとは「戦後派」という意味で、新しい生き方をする女性の意味もある。

 当時、淡島の登場がいかに新鮮な存在だったか。「てんやわんや」を観た映画評論家の水野晴郎は「その笑顔、その動き、その一つ一つが衝撃的でさえあった。それは〈日本の女〉、その概念を破るものであった」と記している(『水野晴郎と銀幕の花々』近代文芸社)。敗戦の5年後、日本はまだアメリカの占領下だった。

小津作品と映画史に残るエピソード

 松竹のトップスターとなった淡島は、次々と有名監督から声がかかる。そして、小津安二郎監督「麦秋」(1951年)にも出演することになった。そこで淡島は、映画史に残る有名なエピソードを残す。20回以上同じ演技のやり直しがあったのだ。

 結婚の報告をする友人(原節子)に「あなた、その話決めたの」と言いながら湯飲みを口にやるシーン。それに対して小津は、「手が早い」「目が早い」「首が遅い」とやり直させるのだ。

 淡島は後にこの時のことを「それがね、あんまりこたえないんですよ、わたしは(笑)。言われるのが好きなんですね」とあっけらかんと語っている。(川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』文藝春秋)。実際に作品を観ると「えっ、この数秒のシーンが」と思うのでぜひ確認してみてほしい。

 この「問題の演技」の後の淡島が素敵だ。原が地方に嫁ぐことを心配して、「あんたって人、庭に白い草花を植えちゃってショパンなんかかけちゃって、タイルの台所に電気冷蔵庫なんか置いちゃって、こう開けるとコカコーラなんか並んじゃって、そんな奥さんになるんじゃないかと思っていたのよ」と身振り手振りで話す。

 ここには当時の女性の憧れと淡島の陽性さが、原が演じる旧来の日本女性と対比されている。まさしく「受けの演技」のうまさだろう。

小津の「早春」で早くも大女優の域に

 小津は厳しい演技指導をしたが、淡島を気に入っていたようだ。なぜなら「早春」(1956年)では主役に起用しているからだ。

 東京・蒲田に住む夫婦(池部良、淡島千景)は6年前に子供を亡くしている。夫は通勤仲間の1人、金魚と呼ばれる女性(岸惠子)と親しくなり一晩を共にする。やがて、妻に浮気が発覚するが同時に岡山へ転勤の話が出る。

 夫に不信感を持ちながらも、何とか関係を修復しようとする淡島の凛とした佇まいがとても美しい。淡島は早くも「大女優」の域に達しようとしていた。

代表作「夫婦善哉」

 その1年前には、淡島にとって代表作となる名作に出演する。豊田四郎監督の「夫婦善哉」(1955年)だ。

 淡島は、東宝からの出演交渉に「私は宝塚から馘首にされている身分ですから」と一度は断ると、東宝はかつて「馘首」の貼り紙をした掲示板に「取消し」の告知をして迎え入れたという(「文藝春秋」1995年12月号)。

 舞台は、昭和初期の大阪・船場。化粧品問屋の跡取り息子・柳吉(森繁久彌)と売れっ子芸者・蝶子(淡島千景)は駆け落ちをするが、柳吉の父親は怒って息子を勘当する。生活に困った2人は、蝶子がヤトナ芸者となり乗り切ろうとするが……。

 森繁は役者として注目され始めた頃だ。淡島に「これで俺は男になりたいんだ。だから協力してほしい」と手紙を出したという(「キネマ旬報」2010年1月上旬号)。その意気込みは作品に溢れ出ている。道楽息子の、根気のなさやわがまま、開き直り、妬みなどを見事に体現しているのだ。

 そして、淡島はその森繁を真正面から受け止める演技を披露する。

名コンビ・森繁久彌

 2人の息の合った名場面を紹介しよう。柳吉が酒を飲み過ぎて朝帰りをすると、蝶子は怒って柳吉を引き摺り回す。そして首を押さえつけて水の入った樽に何度も顔を押しつける。圧巻のシークエンスだ。

 淡島は「豊田先生が『突っ込んで』とおっしゃったんですよね。(森繁は)『俺は死ぬかと思った』って(笑)」と振り返った(『淡島千景 女優としてのプリズム』青弓社)。一方、森繁は「えらい目に遭いましたね。虫も殺さぬ気立のいい人だけど、キャメラが回ると手加減を忘れる(笑)」と語った(山田宏一編『銀幕の天才 森繁久彌』ワイズ出版)。

 法善寺横丁で2人が夫婦善哉を食べるラスト。柳吉が「おばはん、頼りにしてまっせ」というところがしみじみといい。流行語にもなった有名なセリフだ。2人はブルーリボン賞の主演賞をそれぞれ受賞し、その後舞台も含めて多くの作品で共演をすることになった。

女優・淡島千景の魅力

 ここで改めて淡島千景の魅力を考えてみたい。月丘夢路や原節子のように、華やかさがある美人ではないが、どこか親しみのある美しさがある。

 女優の淡路恵子は、デビュー前から淡島のファンで芸名に一字もらったほどだ。淡島の目に憧れて自分で目の下にスジをつけようとしたらしい。淡島に「あんたバカね。あたしこれがいやでしょうがないのに」と言われたが、淡路は「あの目がたまらなく好き」と言っている(『淡島千景 女優としてのプリズム』)。

 そう、淡島の魅力の一つは涙ぶくろが特徴的な目だろう。色気を湛えながら、相手を理解しようとする温かさと親しみを感じる目。これは、淡島最大の特性「母性」へと繋がっているのではないか。

「夫婦善哉」の蝶子は、ダメ男・柳吉を決して見放さない母なる包容力がある。「早春」の浮気をした亭主に対しても、怒っていながらどこか許しているように見える。「あなたってホントにしょうがない人ね」そんな感じだ。

 本人は自分のことを「私はきっと『陽性』なんでしょうね。あまり無理をしていないのね」と語っている(『淡島千景 女優としてのプリズム』)。本人が意識していない特性なのかもしれない。

 淡島は後年、舞台を中心としながら映画やテレビにも出演していたが、2012年2月に膵臓がんで死去する。最後の出演作は前年の「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)で、撮影中に体調を崩していたという。多くの妻役や母親役を演じたが、生涯独身だった。

稲森浩介(いなもり・こうすけ)
映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集

デイリー新潮編集部