『べらぼう』実は写楽は外国人!?謎の浮世絵師・東洲斎写楽はオランダ人「シャラック」だった説

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大河ドラマ『べらぼう』の主人公で版元の蔦屋重三郎は、さまざまな才能ある作家や絵師とともに、新しい文化を生み出してきました。

初期から商売を支えてくれた絵師・北尾重政、ベストセラー作家・北尾政演(山東京伝)、当代一の役者絵師・勝川春章、宝暦の色男で知られる戯作者・平沢常富(朋誠堂喜三二)、挿絵も文章も書ける戯作者・倉橋格(恋川春町)、繊細な描写力で魅了する天才絵師・歌麿……。

現代にも引き継がれる江戸文化の紡ぎ手たちが次々登場して、物語を彩りました。

そして、この時代の浮世絵師といえば「東洲斎写楽」がいます。ドラマでは誰が演じるのか話題になっていましたが、先週の予告では「写楽」は一人の絵師ではなく、蔦重と仲間たちで構成する「チーム写楽」として登場する様子。

実際の写楽は謎だらけなので、いろいろ推理のしがいがあって面白いものです。そこで、一般的に周知されている事柄はさておき、画風の変化、受け続けたブーイング、意外な清廉さ?、実は「写楽はオランダ人・シャラックだった」説まで、気になる話題を調べてみました。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」wikipedia

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写楽の春画はゼロ!禁断のサイドビジネスには手を付けず

「べらぼう」の中で、蔦重が歌麿に「他の絵師も副業で描いている」と春画を勧めるシーンがありました。実際、春画で有名な浮世絵師としては、葛飾北斎、歌川国芳、勝川春章、歌川広重、喜多川歌麿などが挙げられます。

春画は、ただのエロス画ではなく、有名無名の浮世絵師たちが全力投球で制作した立派な浮世絵のジャンル。当時の絵師にとっては人気“裏メニュー”でした。けれども、現在でも春画が見つかっていないのは写楽だけだそうなのです。

なぜ描かなかった?に関しては、活動時間の短かさ、リアリティを追求する画風だったので誇張がある春画は興味がなかった、正体は武家に仕える能役者・斎藤十郎兵衛だったので春画は憚られた……などが挙げられています。

また、興味深いのは、写楽は自分が抱える精神状態の問題を治癒するために、“絵”を描く「自己絵画療法」を行っていたという説も。その悩みは「性的なもの」に関係していたので春画は描かなかったのでは、という話です。

さらに、女性だったので“春画は描きたくなかった”説も。実は、写楽は歌麿の妻(歌麿自身とも)といわれる弟子「喜多川千代女」だったという説もあるようです。

歌麿の春画(一部) wikipedia

版元は蔦重だけ!新人なのに豪華なデビュー作の謎

写楽は、寛政6年(1794)5月に突然、彗星の如く登場します。蔦屋重三郎の元で、歌舞伎役者の上半身を描いた「大首絵」を一挙に28図も出版しました。

歌麿の繊細で儚げな美人の大首絵とは違い、写楽の役者大首絵は、迫力がありかなり特徴的です。しかも、人物の背景に「黒雲母」(墨に雲母(きら)と膠(にかわ)を混ぜた光沢のある絵の具)を用いて、人物を際立たせるという贅沢な仕上げでした。

蔦重は、従来にはない写楽の画風を見たときに、「これは売れるぞ!」とかなり期待して制作に力を入れたのでしょうか。

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」浮世絵検索

似過ぎてモデルの役者からはブーイングの嵐!?

本来役者絵とは人気の歌舞伎役者のブロマイドのようなもの。当時、人々は芝居を楽しんだ後に、家でも余韻に浸るためにこぞって贔屓の役者絵を購入したそうです。

ファンとしては、当然“推し”のきれいな姿を眺めてため息をつきたいので、その役者のチャームポイントを際立たせ「美化」した画が欲しいものです。

ところが写楽の絵は、従来の美男美女画ではなく役者の顔の特徴を強調し、美醜関係なくリアリティを追求する画風でした。確かに面白い画風なのですが、ファンにとっては愛でたい絵ではなかったでしょう。

特に女形の役者絵は、「化粧と華やかな着物の下に隠されているのは男性だ!」というリアルが浮き彫りになっています。女形の美しさや可憐さより「男性が演じているぞ」という、ファンが見たくない現実を浮き彫りにしてしまったのです。役者からも「自分はこんな顔していない!」「もっときれいに描いてくれ!」というブーイングの嵐を受けたとか。

ここで、『三世市川高麗蔵の志賀大七』を描いた、写楽と勝川春英の絵の違いを見てみましょう。

上は写楽が描いたものです。面長で鉤鼻、やや前に突き出た顎が特徴の役者のようですが、鼻はけわしく顎はがっちりと長い部分を強調し、目も丸くして瞳を中心に寄せユーモラスな表情に。そして、下は勝川春英が描いたものですが、すっきりとした容貌に描かれています。

当初、役者本人やファンには不評だった写楽の画ですが、その秀でた描写力や個性がのちの才能への評価にとつながっていくのは皮肉なものです。

東洲斎写楽「三世市川高麗蔵の志賀大七」浮世絵検索

勝川春英「三代目市川高麗蔵」文化遺産オンライン

画風は変化し、あってはならないミスも連発

寛政6年(1794)5月にデビュー後、写楽は7月に第二弾の作品群を発表。全身絵が増え、興行主からの挨拶を描いた「楽屋頭取口上の図」や「細絵」も描いています。

そして11月の第三期は、顔見世狂言を描いた物、間版サイズの大首絵、亡くなった役者を追悼する「追善絵」を描いていますが、デビュー当時のインパクトは影を潜め、徐々に筆力の衰えが目立つようになりました。

また、間版シリーズでは5点に屋号や俳名の誤記が発見。「厳重な出版管理で知られる蔦屋が、なぜこんなミスを?」というのも謎です。

誤記が生じた3期は、創作意欲を失った写楽が行方不明となり、工房で他の人が仕上げるという急ピッチな制作体制だったためミスをチェックする余裕がなかった、などと推測されています。

狂歌師・大田南畝が写楽について語った「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」という評価の通りになってしまいました。

最初の作品の反応を受け、個性の強さは控え「より売れ筋で行こう!」という蔦重の指示があり、写楽自体どう描くべきか迷走したのかもしれません。

絵師としては迫力ある絵を描きたいのに、「売れる」ためには版元の指示通り、表現を押さえて描かねばないとなると、当然やる気も創作意欲も湧かず粗雑になっていくでしょう。現代のクリエーターと売る側にそのまま共通する出来事です。

大田南畝肖像『近世名家肖像』wikipedia

写楽は、実はオランダ人・シャラックだった!?

あまりにも、その正体を含め謎が多い写楽。通常は、いろいろな謎を探るほどに、だんだんその素顔が浮かんでくるものです。ところが、写楽の場合は、むしろ知れば知るほど、その輪郭を描く線が増えて重なり合い、より実体がぼやけていく感じが。けれども、そんなミステリアスなところに惹かれる要素があるのかもしれません。

もしかしたら、「べらぼう」の脚本のように、写楽は1人の人物ではなく複数のチームで構成されたものだったのかも……。

最後に、写楽は「オランダ人だった」という興味深い説をご紹介しましょう。

実は、「あるオランダ人が蔦屋と共に歌舞伎を鑑賞して画を描き、それを歌麿が描き写しをして『写楽』として世に出した。きれいな幻想を好む日本人とは違う異国人ならでは視点が、リアルな役者描写を生んだ」という説。

確かに、異国人からみると日本人の役者、化粧、着物などは新鮮だったでしょう。それを帰国したときに人々に伝えたい!とリアルに描き写したのかもしれません。

それが今までのきれいな役者絵とは違い新鮮だったので、蔦重が「そうきたか!」と膝を叩き、他の絵師に仕上げさせて「写楽」として売り出した。そんなふうに想像すると、実際にありそうで面白そうですね。

また、昭和63年の新聞には、桂三枝さんによる「浮世絵師洒落の正体は『外国人シャラック』だった」という創作落語が記事になっています。写楽の人物の鼻がとても大きいことがそのヒントになったそうです。

徳川将軍に接見するために長崎から江戸に来て、歌舞伎を見学したシャラック。新しい浮世絵を世に出そうとしていた蔦重が彼に目を受けて役者絵を依頼する。山東京伝らが「東方の神祭りをする島国」という意味の「東洲斎」という号を考えたが、シャラックは帰国したために10ヶ月でその活躍は終わってしまった。

そんな内容で、三枝さんは写楽の浮世絵特有の「手のポーズ」を加えて演じたいとのことで、面白そうな内容です。

「写楽は外人者ラック 三枝師匠が創作落語」の記事。Hoji Shinbun Digital Collection

おわりに

ドラマ「べらぼう」では、影の傀儡師・一橋治済により被害を被った松平容保が結集したアベンジャーズ作戦により、蔦重が立ち上げる「チーム写楽」というストーリーになるようです。

江戸時代の絵師なのに、現代でも断片的に残っている記録や作品を手がかりに謎解きが行われている写楽。

もしかしたら、力を注いだ最初の作品でブーイングを受けた写楽は、「これは、将来評価されるべき名作なんだ。俺のことを忘れるな!」と、わざとさまざまな足跡を残したのかもしれない……そんな気さえしてしまいました。

東洲斎写楽「瀬川菊之丞」浮世絵検索

参考文献:
『写楽の深層』秋田巌
『写楽 閉じた国の幻』島田 荘司