選挙は民主主義の「バグ」…!斉藤元彦・前兵庫県知事が”再当選”する可能性も…そのヤバい構造

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民主主義は完全ではない

「バグ」という言葉がある。もともとは虫を意味する英語だが、のちに機械の異常停止や誤動作を生むコンピュータプログラムの誤りのことを意味するようになった。さらに最近では、入社2年目より1年目の新入社員の月給が高いことをもって「初任給がバグ」だと言われるなど、ある仕組みに矛盾や誤りがある状態のことも指すようになっている。

そんな「バグ」が、私たちの社会生活の基盤であるはずの民主主義(選挙)に生じ得るとしたら、みなさんはどう思うだろうか。

たとえば、今年9月に県議会議員全員が賛成して不信任を決議され、失職した斎藤前兵庫県知事の出直し選挙が11月に行われる。仮に斎藤氏が勝った場合、有権者から託された県議会議員による民意と、有権者の投票による民意に齟齬が生じることになる。これをどう考えればよいのか。

もちろん、「知事の再選が最新の有権者の意思であり、民意は上書きされたのだ」とか、「禊は済んだ」で片づけることはできる。ただ、時に「絶対的正義」のように言われがちな「民意」自体、そもそも本当に真正かつ盤石なものかというと、実は怪しく、危ういものなのではないかと筆者は考えている。

そんなことを含め、本稿では、私たち国民が日頃から薄々感じてはいながら、つい素通りしがちな民主主義(選挙)に付きまとう「バグ」について問題提起していきたい。

分かりやすい、選挙制度の「バグ」

選挙(投票により政治権力を持つ人を選び出す仕組み)は、有権者の意思(投票内容)を適正に反映するものでなければならない。これは議会制民主主義制度の大前提である。ところが、選挙制度の設計によっては、有権者の投票内容が必ずしも政治家の選出結果に反映されないことが起こりうる。

その最も分かりやすいケースが、より多くの票を得た候補者が落選し、相対的に少ない得票の候補者が当選してしまうことである。

世界で最も有名な例はアメリカの大統領選挙だろう。米国民一人ひとりからの総得票数で上回った候補が大統領になれない事態が過去に何度も起きている。間接選挙の形式をとっているため、有権者からの得票数と、大統領を決める投票に参加する「選挙人」の獲得人数にズレが生じることがあるからだ。

また、わが国の衆議院議員選挙においても、ある小選挙区で3位以下の得票だった候補者が比例代表で復活当選する一方、同じ小選挙区で次点だった候補者が落選するという逆転現象が起きうることから、制度上の歪みが指摘されることがある。

とはいえ、一見理不尽に見えるこれらの話も、そういうことも起こりうると一度は想定されて制度設計されたものである。こうした制度に絶対的な正解はないので、問題があるというなら議論を続けて、よりよいものに見直しを続けていくしかないといえる。

民意形成における「バグ」

一方、選挙のバグについては、こうした制度上のもの以外にも存在する。

それは、有権者自身の投票行動の不確かさに起因するものだ。

冷静に考えてみてほしい。読者のみなさんは、選挙の際にどの候補や政党に投票するかを、毎回どのような基準で決めているだろうか。特定の候補者と個別のつながりや利害関係を持っていたり、確固たる信念や支持政党がある人を除き、毎回自由に投票先を決める無党派層の多くは、選挙期間中のマスメディアの報道などから作られる雰囲気や、選挙に吹く「風」を無意識に受け入れて、「何となく」決めているのではないだろうか。

あるいは、選挙公示前から駅前で街頭遊説していて名前を憶えている候補者に、少しだけ親近感を覚えて投票してしまうことはないだろうか。

また、かつて、スキャンダルや失政があった政党や政治家でも、1回選挙を経れば、「禊は済んだ」とばかりに、過去のことは考慮せずに(忘れて)投票の判断をしている人もいる(ただし、「民主党には二度と政権は任せたくない」だけは例外的に相当数の日本人の頭に焼き付いているかもしれないが…)。

それこそ、これから有権者の審判を受けることになる斎藤前兵庫県知事についても、状況は変わりつつある。県議会の百条委員会の頃は針のむしろ状態だったのに、失職後に出直し選挙への出馬の動きが出るや、斎藤氏は国政・県政における政党間のいざこざの被害者である(パワハラやおねだり疑惑も「盛られた」ものだ)という見方をはじめ、四面楚歌の状態だった彼を擁護する意見や報道も出てきている。出直し選挙の当落は、対立候補の動向にもよるので何とも言えないが、今後の報道の取り上げ方やネット上での盛り上がり方一つで有権者の投票行動が変化し、斎藤氏が勝利する可能性はないではない。

一本の記事が、大阪都構想を否決した?

このように、選挙というものが、不安定な有権者の投票行動によって決する以上、どんなに優勢だと事前に報じられていても、投票箱が閉じられるまで何があるかわからない。2017年の衆議院総選挙に「希望の党」を引っ提げて参戦した小池百合子東京都知事が、民進党議員の合流を「排除」すると発言したことがきっかけで失速したことはみなさんもご記憶だろう。

また、選挙期間中に、ある勢力にとって都合の悪い情報がマスメディアやネット上に流されたとき、それをじっくり検証すれば明らかなフェイクであったり、あるいは多少「盛った(誇張された)」ものだったとしても、慌ただしい選挙期間中においては十分検証されることなくセンセーショナルに報道され、SNSで広まってしまうことがある。その結果、有権者の投票行動に影響を与え、勝敗がひっくり返ってしまうこともありえる。

実際、政治家を選ぶ選挙ではないが、地方自治体の行く末を決める住民投票の実施直前に、不用意に放たれた情報によって、投票結果に影響を与えた疑いがもたれている事例は存在する。

首都圏では大きく報道されなかったので記憶にない方も多いかもしれないが、2020年11月1日に行われた、いわゆる大阪都構想(大阪市を廃止して東京都のような特別区制度を導入すること)の是非を問う2度目の住民投票の際にそれは起きた。

投票の1週間ほど前に、大阪都に移行することの財政的なデメリットを匂わす情報(大阪市を4自治体に分割すれば218億円のコスト増になるという試算)を大阪市の幹部が報道機関に伝え、それが新聞各紙などで次々と報道されたのである。

今でも残るネット記事の見出しを引用すると、こんな感じだ。

「大阪市4分割ならコスト218億円増 都構想実現で特別区の収支悪化も 市試算」(毎日新聞2020/10/26)

「「年218億円増」試算 大阪市、単純に4分割なら」(朝日新聞2020/10/26)

このうち朝日新聞は、当初「大阪都構想で大阪市を廃止して特別区に再編した場合」と記事に書いてしまい、後に「大阪市を単純に四つの市に分割した場合」に訂正している。記者が誤解したくらいなのだから、一般読者がこの記事を読んで受けた印象はどうだったか、想像はつくだろう。

この報道を受け、当時の松井大阪市長は、残り僅かな投票日までの時間を使い、報道内容は誤解を招くものだとして火消しに走ったが、焼け石に水だった。人間は、ひとたびインパクトのある情報が頭に刻み込まれると、短期間でその印象を変えるのは容易ではない。しかも、本件は内容が難しい地方財政制度に関わる話だった。

結局、この報道がきっかけとなり、もともと賛成意見が優勢とも言われていた住民投票は、土壇場で反対に回る有権者が続出し、僅差で否決されてしまったという見方もある。

こんな時期に、そんな誤解を招く情報を報道機関に提供した幹部は後に謝罪会見を行い、処分も受けている。彼らがこれを大阪都構想阻止のために意図的に行ったのかは当人たちにしかわからないが、客観的に言えることは、選挙や住民投票で、有権者が投票行動を決めつつある時期に、その判断に影響を与える効果的な情報を世の中(報道機関やインターネット上)に放てば、投票結果に一定方向の影響を与えることは十分可能であるという事実だ。

右向きに吹いていた風が、ある情報が投下されたことをきっかけに、突然左向きに変わり、風見鶏も反対を向いてしまった。しかし、選挙や投票というものは、パソコンの「CTRL」+「Z」キーを押すかのように、「間違った情報で投票が行われたから、やり直します」というわけにはいかない。

そういったことをすべて承知の上で、確信的な悪意を持って、有権者の誤解を引き起こして選挙結果をひっくり返すことを意図するような情報を、絶妙なタイミングで投げ込む人がいるとしたら、ただただ、末恐ろしくなるばかりである。これを民意の「バグ」で済ませて良いのだろうか。

不安定な民意を、どこまで重視し、尊重するのか

民主主義社会において、住民投票や直接選挙で示される有権者の意思は、有権者が選んだ議員によって物事が決められる意思より重い(強い)、という意見は、たしかにもっともである。しかし、有権者の示す意思が、実はマスメディアの意識・又は無意識的な報道などによって、容易に振り回されてしまうものだとしたら、そればかりを尊重しすぎると、かえって社会は混乱するのではないだろうか。

そうした「民主主義のバグ」を克服するためには、マスメディアの報道のレベルを上げ、有権者がメディアリテラシーを高めていくことが必要だ。しかし、それだけでは限界があり、問題は解決しないだろう。

ここで大切なことは、選挙で選ばれた議員が、有権者に代わって国や地方自治体の在り方を議論し、決定していく間接民主制がなぜ導入されているかという原点に立ち帰ることである。筆者は、有権者が集まってすべてのことを決めていく直接民主制は、議論や投票に大変手間がかかるから間接民主制になっていると中学校で習った記憶があるが、デジタル化の劇的な進展により大人数・双方向のコミュニケーションが可能になった現代では、扱うテーマを絞りさえすれば、直接民主制の実現へのハードルは下がっていると言えなくもない。

それでもなお間接民主制を採る理由は、有権者自身による意思表示の不安定さ(容易にブレたり、明確な意思表示をしたがらないなど)を補完するために必要だからだと筆者は考えている。

有権者に代わってじっくり考えてくれる人を選挙で選び、託した以上、当選後に多少の不満は生じても、「選んだ責任」が生じる。だから、ある程度は信じてついていくことも必要だという視点を、私たちは今一度思い返してみるべきではないだろうか。

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