ドジャースは22日(日本時間23日)、球団OBで通算173勝を挙げたフェルナンド・バレンズエラ氏が死去したことを発表した。63歳だった。メキシコ出身のバレンズエラ氏は、1981年に11完投8完封で13勝(7敗)をあげ、史上初めて新人王とサイ・ヤング賞を同時受賞。ニックネームはスペイン語で闘牛を意味するEL TORO。ずんぐりした体型からスクリューボールで相手打線を打ち取る、1980年代のメジャーを代表する左腕だった。

 12人兄弟の末っ子としてメキシコの片田舎で生まれ、セミプロでプレーしていた。ドジャースタジアムでかつてスピードガンを構えていた有名なスカウトのブリト氏に見いだされ、18歳でドジャースと契約。翌年2Aで13勝し、終盤メジャー昇格。1981年はブルペン候補だったが、幸運が訪れる。開幕投手に指名されていた左腕ジェリー・ロイスが負傷したため、急きょ開幕先発を託されると、アストロズ相手に5安打完封。次のジャイアンツ戦は1失点完投。そのあと3試合連続完封勝利と全米にセンセーションを巻き起こした。

 今季、カブスの今永昇太投手が開幕6戦5勝で話題になったが、バレンズエラは初先発から8戦全勝、うち5完封だった。本拠ロサンゼルスだけでなく、敵地のスタジアムでも彼が先発する試合はほとんど満員。同年のドジャース戦、バレンズエラが登板した試合の平均観客数は4万515人、それ以外では3万344人。1万人以上多かったことでもその注、目度のすごさがうかがえ、「フェルナンド・マニア」という言葉まで誕生した。

 同年のポストシーズンでもアストロズとの地区シリーズ第4戦完投勝利。優勝決定シリーズではエクスポズとの2勝2敗の最終戦(当時は3勝先勝制)に登板し、9回途中1失点でチームのリーグ優勝に貢献。ワールドシリーズでは0勝2敗の第3戦にマウンドに上がり4失点ながら勝利投手になって流れを変えると、4連勝してチーム16年ぶりの世界一になった。

 その後の活躍も見事で、1986年オールスター戦の5者連続三振、1990年6月にはノーヒッターも達成した。

 そんな男がパドレスに在籍していた1995年再びクローズアップされた。日本からドジャース入りした野茂英雄の登場で、バレンズエラ以来のルーキーセンセーションと話題になったからだ。当時、私は野茂取材で現地にいて、ドジャースタジアムの切符売り場でメキシコ人の親子連れに話を聞いた。その父親が「私は少年時代にバレンズエラを父親に見せてもらって大きくなった。今度は、私が子供たちに野茂を見せてあげて、バレンズエラの話を後でゆっくり聞かせるんだよ」と言っていたのを思い出す。私より7歳も若い左腕。天空を見上げるようなフォームで大きく足を上げて投げこむ姿は忘れられない。

(蛭間豊章=ベースボール・アナリスト)