(※写真はイメージです/PIXTA)

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65歳で退職した元会社員の佐藤さんとその妻。どちらも長寿の家系で自分たちも長生きすると予想し、老後資金の不安から年金を繰下げることを決断しました。受給のない期間は厳しい倹約生活を行ってきた2人でしたが、5年後、佐藤さんに予期せぬ病が見つかり……。本記事では、具体的な事例を交えながら、年金繰下げのメリットとデメリット、そして注意点についてFPの三原由紀氏が解説します。

長寿を見据えて年金繰下げを決断、倹約に努めた5年間

佐藤茂さん(70歳)は、元機械メーカーのエンジニア、5年前に65歳で会社を退職しました。妻の京子さん(68歳)は専業主婦として家庭を守ってきた典型的な昭和型夫婦です。年金は夫婦で合計月18万円。決して余裕のある金額ではありませんが、贅沢を望まなければ何とかやっていけると考えていました。

しかし、佐藤さん夫妻は一抹の不安を抱えていたのです。それは自分たちが長寿家系であること。

両親をはじめとして親戚一同ともに卒寿のお祝いをしてきたこともあり、自分たちも長生きするだろうと覚悟していました。

「このまま物価が上がり続け、さらに病気や介護が必要になったら、この年金額ではやっていけないかも。」と茂さんは不安を感じていました。京子さんも「長生きは嬉しいけれど、お金のことを考えると心配になるわ」と同意しました。

そんな時、地元の地銀から送られてきた年金相談会に夫婦で参加し、年金の繰下げ受給について知ったのです。「これなら長生きしても安心だね」と考えた佐藤夫婦は、相談会で社労士からの助言に確信を持ち、年金の繰下げを決断しました。

65歳から70歳までの5年間、年金を受け取らずに生活するのは大変でしたが、将来のためにこのくらい我慢しなければ、と夫婦でがんばりました。2歳年下の京子さんは年金の繰下げをしなかったので、途中からは京子さんの年金月6.5万円と退職金・預貯金を切り崩してしのぎました。

「激安スーパーをハシゴして食費は夫婦で月2万円以下。外食なんてほとんどしなかったわ。新しい服もほとんど買ってないし」と京子さんは振り返ります。佐藤さんも「大好きなトレッキングも日帰りに限定して1年に2〜3回だけ。ガソリン代や駐車場代を節約したね」と当時を懐かしむように語りました。

予期せぬ間質性肺炎の発症…取り戻せない時間への後悔

しかし、70歳になったばかりの佐藤さんに、思わぬ出来事が起こります。トレッキングから帰宅した翌日から咳が止まらず、息切れも感じたため病院を受診したところ、間質性肺炎と診断されたのです。

間質性肺炎は、肺の間質と呼ばれる部分に炎症が起こり、進行すると呼吸困難を引き起こす深刻な病気です。佐藤さんの場合、幸い早期発見だったため重症化は免れたものの、日常生活に一定の影響が出ることに…「診断を受けた時は本当にショックでした。これまで健康には自信があったのに」と佐藤さん。

治療は継続的に行われているものの、体調次第では趣味のトレッキングに行くことも難しくなってしまいました。「階段を上るのも辛いこともあるんです。在宅酸素療法も検討しているところです」と佐藤さんは声を落として語ります。

「こんなことになるなら、健康なうちに夫婦で人生を楽しむために年金を使いたかった……」と佐藤さんは後悔しました。「泊まりでトレッキングに行ったり、趣味を楽しんだりする時間があったのに、それを逃してしまった」。妻の京子さんも同じ思いです。「主人の病気をきっかけに、お金よりも時間の大切さを実感しました。今、健康なうちに楽しめることを楽しむべきだったと思います」と、目に涙を浮かべながら語りました。

繰下げによる年金増額は魅力的だが、慎重な判断が必要

年金の繰下げ受給には、確かに大きなメリットがあります。1ヵ月繰下げるごとに0.7%増額され、10年間繰下げると84%も増額されます。佐藤さんの場合は5年間の繰下げで約42%、月5万円ほど増額されました。海外駐在をしていたこともあり、年金額は平均より少ない水準でしたが、繰下げによって元々月18万円の受給額が月23万円程度に。平均受給額に近づいた形です。

しかし、デメリットもあるのです。まず、繰下げ期間中は年金を受け取れないため、その間の生活費を確保する必要があり、佐藤さん夫婦はその期間、徹底的な倹約生活を自らに課しました。年金の繰下げを検討する際は、単に金額だけでなく、自分の人生設計全体を考える必要があります。健康状態、家族の状況、やりたいことなど、総合的に判断することが大切です。

佐藤さんの経験は、年金繰下げの決断が必ずしも正解とは限らないことを教えてくれます。長生きのリスクに備えることも大切ですが、今を生きる幸せも同じくらい重要なのです。

最後に、佐藤さんは次のように語ってくれました。「年金繰下げを考えている人は、自分の健康状態をよく見極めて、将来の計画だけでなく今の生活の質も大切にしてほしい。そして、定期的に計画を見直し、柔軟に対応することが重要だと思います。私たちの経験が、誰かの参考になれば嬉しいです」

付け加えるとするならば、年金繰下げは全体最適を考えることも大切です。老齢年金の一方のみ(基礎年金または厚生年金)を繰下げる、あるいは、夫婦の場合は統計的に寿命の長い女性である妻の老齢基礎年金を繰下げる戦略も有用です。

いずれにしても、繰下げた年金を受け取ってしまった後は、取り消せません。年金繰下げは、長生きリスクへの対策として有効な選択肢の一つですが、それぞれの状況に応じて慎重に判断する必要があります。自分の人生設計に合わせて、柔軟に判断することが求められているのです。

三原 由紀
プレ定年専門FP®