作家デビューから40年、一貫して女性の恋愛や友情、生き方を描いてきた唯川さんが、満を持して故郷・金沢を舞台に紡いだ最新作『おとこ川をんな川』が10月23日(水)、ついに刊行になります。

 昭和初年の金沢の花街を舞台に、芸妓として強く、しなやかに生きる女性たちの姿を描いた連作長篇です。

 刊行に先立ち、本作の魅力を皆さんにいち早く感じていただくべく、本書収録の第1話で表題作「おとこ川をんな川」の冒頭を先行無料公開します。

 金沢はひがしの茶屋街、置屋「梅ふく」の芸妓・朱鷺(とき)はある日、密かに胸に秘めていた相手・浩介から所帯を持というと告げられます。恋することすら許されぬ場所で、彼女が掴んだものとは……。今は遠い、昭和の金沢が鮮やかに蘇る冒頭をお楽しみ下さい。

 元号が大正から昭和に代わり初めて迎えた正月。

 金沢・ひがしの花街は雪に覆われていた。

 朱鷺はそっと布団を抜けだした。朝九時前。簡素な部屋は障子や襖から隙間風が入り込み、火の気もなくて凍えるほどに寒い。震えながら寝巻から藍染絣に着替え、ビロードの冬足袋を履いて帯に根付鈴を挟む。その上に厚い綿入り半纏を羽織り、毛糸のショールを手にした。

 昨夜の大晦日は三つの座敷に呼ばれ、『梅ふく』に戻った時は午前一時を過ぎていた。帰ってから化粧を落とし、簪や櫛を片付け、着物や帯を衣桁に掛けて、床に就いた頃には午前三時を回っていた。それでも早い方だった。お姐さん芸妓衆は朝まで年越しのどんちゃん騒ぎに付き合ったはずである。

「どうしたが、こんなに早く」

 隣の布団から、トンボがくぐもった声で尋ねた。

「起こしてかんにん。ちょっと初詣に行こうと思って」

 トンボとは、朱鷺がここに貰われて来た時からずっと一緒に暮らしてきた。同い年のせいもあって、心許せる双子の姉妹のような存在である。

「ほんなら、あたしも行く」

 起き上がろうとするトンボを、朱鷺は押し留めた。

「いいの、トンボは寝とって。ちょっとお参りしてくるだけやさけ」

「ふうん、なんやそういうことか。それならあたしは遠慮しとくわ」

 トンボは訳知り顔で布団の中に潜り込んだ。どうやら何もかもお見通しのようである。

 帳場の前を通る時、女将のおかあさんとばんばの姿がなくてほっとした。お正月は女紅場も休みなので、誰もがのんびり過ごしていた。

 頭からすっぽりショールをかぶり、勝手口から通りに出ると、陽ざしの眩しさに思わず目を細めた。この時期、空は金沢特有の冬の分厚い雲が垂れこめるが、今朝はまるで新年を祝うかのようにすがすがしく晴れ渡っている。その分気温も下がって雪が凍り付き、油断すると冬下駄でも足を取られそうになった。朱鷺は転ばぬよう気をつけながら、久保市乙剣宮へと急いだ。

 喧噪溢れる夜と違い、通りに人の気配はない。紅殻格子戸も固く閉じられている。しばらく歩くと下駄の歯の間に雪が挟まりダンゴになった。立ち止まって、かんかんと下駄の爪先を雪道に打ち付けて落としておく。

 浅野川大橋まで来たところで、朱鷺はふと足を止めた。

 橋の下で浅野川がさらさらと澄んだ音をたてている。顔を上げると、左手には雪に覆われた卯辰山が朝日に輝き、そのまま上流に目を向けると、梅ノ橋、天神橋、常盤橋と続き、そのずっと先に望まれるのは雪に覆われた医王山だ。

 朱鷺はしばらくその風景に見入った。

 能登の海辺の田舎町から置屋・梅ふくに売られて来たのは七歳の時だった。家族と離れ、知らぬ土地に連れて来られた緊張で、身を硬くするばかりの朱鷺に、女将の時江が口にした言葉が思い出された。

「きれいな川やろう。浅野川っていうが。金沢には金沢城を真ん中に南に犀川、北にこの浅野川が流れとってな、犀川はおとこ川、この浅野川はをんな川と呼ばれとるんや」

 朱鷺は流れに目をやった。

「ふたつの川は一度も相容れぬまま海に流れ着くんが。無常というかせんないというか、まさに男と女そのものややろ……」

 そこでハッとしたかのように、女将は言い繕った。

「あらあら、あたしったらダラなこと言ってしもたね。なあんも気にせんでいいが、いつかあんたもわかる日が来るさけ」

 あれから十三年。朱鷺はもうすぐ二十歳になる。

 橋を渡り、主計町の通りを過ぎてゆく。帯に挟んだ根付鈴がちりちり鳴っている。暗がり坂の先にお宮があり、近づくにつれ初詣の人が多くなった。朱鷺はショールをそっと顔の前でかき合わせた。いつもの華やかな芸妓姿とは違い、粗末な普段着の朱鷺に気づく人はいないと思うが、それでも知っている誰かと顔を合わせたくなかった。

 ――元旦の朝九時、拝殿の裏で待っとる。

 浩介から手紙が届いたのは年末だった。

 ――大事な話があるんや。朱鷺が来るまでずっと待っとるさけ。

 浩介はひとつ歳上で、建具職人として働いている。父親は浩介が生まれた時には行方知れず、母親も幼い頃に流行り病で逝ったという、天涯孤独の身の上である。その後、丁稚奉公として建具屋の親方に引き取られて今に至っている。不運な身の上であるにもかかわらず、投げやりになることもなく、真面目で心根の優しい男だ。

 出会いは三年前に遡る。浩介が親方のお供で座敷に連れられてきたのが始まりだった。緊張した面持ちで浩介は隅っこの方に座っていた。親方から酒を勧められ、断れぬまま杯を重ね、すっかり悪酔いしてしまった浩介に、水を運んだり濡れた手拭いを当ててやったりと介抱したのが朱鷺だった。それは新米芸妓の役割でしかなかったのだが、浩介にとってはいたく胸に響いた出来事だったらしい。

 翌日、浩介が梅ふくに現れた。昨夜の醜態を詫び、「これを」と、根付鈴を差し出した。

「こんなもんで恥ずかしいんやけど、どうしてもお礼がしたくて」

 と、恥じ入るように頰を紅潮させた。

「そんなん、気にしんでもよかったがに」

 とはいえ、朱鷺はその愛らしい贈り物を手にして胸が弾んだ。時折、客から高価な簪や帯留めを貰ったりもするが、そこには必ず下心が見える。何の思惑もない浩介の気持ちが素直に嬉しかった。

 それから時々ふたりで会うようになった。会うといっても、せいぜいひと月に一度、ほんの一時間ほど他愛ない話をするだけだ。勉強熱心な浩介は、金沢にゆかりの深い犀星や秋聲、鏡花の本をよく読んでいた。また親方の家に配達される新聞も隅から隅まで目を通していて、そんな浩介からいろんな話を聞くのが楽しみだった。それは花街しか知らない朱鷺にとって、違う世界に触れられる唯一のとば口でもあった。同時に、浩介と過ごす時間は、芸妓から普通の娘に戻れるかけがえのないひと時でもあった。

 しかし、惹かれたのはそればかりではない。年端もいかぬ頃、家族との縁を断たねばならなかった境遇は、ふたりに共通する寄る辺なさでもあった。心を寄せ合うようになったのは自然の成り行きだったろう。

 大事な話って何やろ。

 暗がり坂を登り切り、初詣客で賑わう参道から逸れて拝殿の裏手に回ると、大きな松の木の下で浩介が肩をすぼめて立っていた。朱鷺は小走りに近づいた。

「待たせてかんにん」

 浩介がぱっと表情を輝かせ、照れ臭そうに笑う。

「いや、僕も今来たとこや。こんなに早くから悪かったな。昨夜も遅かったんやろ」

「大晦日やさけ」

「わかってたんやけど、どうしても今日話しておきたくて。やっぱり一年の始まりやし」

「話ってなに?」

「あのな……」

 しばらく、浩介はためらうように言葉を濁らせた。

「あたし、十時までには戻らんといかんの」

 置屋の朝食は十時と決まっている。いつもなら少しぐらい遅れても構わないが、今日は元旦である。おかあさんの時江をはじめ、ばんばの稲、お姐さんたちや、見習いのたあぼたちも揃ってお雑煮をいただくのが毎年の習わしだ。

「そやな。うん、あのな、あの、驚かんでほしいんやけど」

 そこで浩介は大きく息を吸った。

「僕の嫁さんになってくれんか」

「え……」

 すぐには意味がわからず、朱鷺はまばたきした。

「朱鷺は今年で年季明けやろ。これでようやく自由の身になれる。だからって貧乏暮らしの僕のところに嫁に来てくれなんて言えるはずもないんやけど、やっぱり思い切って言うことにした。どうやろ、僕の嫁さんになってくれんやろか」

 胸が高鳴り、頰が上気した。

「そやけど、あたしは……」

 それでも朱鷺は目を伏せた。堅気の娘とは訳が違う。所詮は花街に身を置く女である。それがどういう意味を持つか、浩介はわかっているのだろうか。

 戸惑う朱鷺に、浩介は一歩近づいた。

「やっぱり僕みたいな者は駄目か」

「そうやないが、そうやなくて……。あんまり急なもんやからびっくりして」

 朱鷺は微妙に言葉をすり替えた。

「とにかく、考えるだけ考えてみてくれんか。僕には朱鷺しかおらん。一生、大事にするさけ」

 浩介がまっすぐに朱鷺を見つめる。その愚直な眼差しに、朱鷺は熱く胸が震えるばかりだった。

「あけましておめでとさん。みんな今年も身体に気い付けて、しっかりお稽古に励んで、たくさんお客さまに可愛がってもらえるよう頑張ってたいま」

 梅ふくの女将であり、おかあさんと呼ばれる時江の言葉を、いつもと違ってみな神妙な顔つきで聞いていた。やはり元旦は特別だ。

 今、梅ふくには芸妓四人と振袖芸者、そして見習いのたあぼがふたりいる。

 いちばんの古株は君香で年は三十二。三味線の腕に定評があり、若い妓とは違う色香が人気の売れっ子芸妓である。ただ、すでに長い付き合いの旦那がいて、花街にほど近いところに一軒家を持ち、旦那との間にできた六歳の娘と、田舎から呼び寄せた母親と暮らし、通い芸妓となっている。

 二十六歳の桃丸は横笛の名手としての誉が高く、愛嬌もあって人気はあるが、酒好きなのと男に惚れっぽいところが玉に瑕で、しょっちゅう揉め事を起こしている。ふたりは年季が明けた後も花街で働くことを選んだ芸妓である。そこに朱鷺とトンボが加わる。

 芸妓になる前の振袖さんと呼ばれる琴菊は十四歳。お使いや芸妓たちの身の回りの手伝いをしつつ見習いをする「たあぼ」は、十一歳の留子と九歳の美弥である。

 そこに置屋の運営や芸妓たちの管理をする「ばんば」の稲。稲はかつて女将の時江の実家に奉公していた縁で梅ふくに身を置いている。芸妓たちの行儀や言葉遣いにことに厳しく、いわば口うるさい祖母のような存在だ。そして通い女中のフミ。総勢十人の所帯である。

 京都祇園がたおやかな公家文化を、江戸花街が粋な町人文化の流れを汲んでいるとすれば、金沢は質実剛健な武家文化を踏襲している。実際、女将の時江は旧藩士の家柄出身だ。

 士族の娘を芸妓にする許可が下りたのは明治十二年。没落したとはいえ、時江の武士の娘としての気概は失せることなく、礼儀に厳しく一本気な気質である。置屋によっては芸妓の他に身体を売る娼妓を置いたりもするのだが、それを断固受け入れず、芸妓は芸でしのぎを削るという信念を貫いている。

 元旦の膳には、普段使いとは違った器が並べられていた。金蒔絵が施された輪島塗の重箱と、華やかな文様が施された九谷焼の銘々皿だ。塗り椀によそわれた雑煮は、昆布出汁が利いたすまし仕立てで餅は角餅、そこに加賀芹とかまぼこが載っている。あとは黒豆、きんとん、なます、鰤。

 いつもの一汁一菜とは大違いの豪華さで、幼いたあぼたちは目を輝かせて口に運んでいる。前の通りを加賀獅子舞が、賑やかな声を上げながら練り歩いてゆくのもお正月ならではだ。

「このべろべろ、おいしいなぁ」

 トンボが声を上げた。

 べろべろというのは溶き卵を寒天で固めた郷土料理で、えびすとも呼ばれ、金沢の祝いの席には欠かせない一品である。

「トンボ、そんな大きな口を開けたらだちゃかんやろ」

 早速稲に𠮟られて、トンボがぺろりと舌を出す。こんなやり取りは日常茶飯事だ。

 トンボはひがしの花街では変わり者で通っている。踊りや三味線といった芸事はすべて身に付けているのだが、芸妓姿にはならず、いつも男仕立ての着物を纏い、髪も結わずに後ろで高くひとつに束ねた姿で座敷に出ている。

 それを許していることに、他の置屋の女将たちは眉を顰めているのだが、おかあさんは気にしていない。実際、そんなトンボを珍しがってお座敷の声はよくかかっていた。

 トンボは五尺六寸と背が高く、肌が透けるように白く、栗色の髪と鳶色の目を持っている。

 異国の血が入っているのだ。それをとやかく言われても、おかあさん同様、トンボも気にしていない。「これでお呼びがかかるんやさけ得しとるわ」と、あっけらかんとしている。

 賑やかな食事の後は湯屋に向かった。帰りに髪結いに寄り、梅ふくに戻って化粧を済ませ、座敷用の着物に着替える。着付けは力仕事なので、それ専門の男衆がいる。

 今日着る正装の五つ紋黒留袖は、元旦ということでいつにも増して華やかだ。金糸銀糸の刺繡が入った松竹梅の加賀友禅に、裾はお引きずり、そこに金襴緞子の丸帯をだらりに締める。髪には稲穂に白鳩の付いた簪をさすのがしきたりとなっている。支度を終えると、そこにはもうよれよれの藍染絣を着た朱鷺の姿などどこにもない。

 夕方になって、正月最初の客、門倉利光が待つ料亭『香月楼』に向かった。玄関をくぐってまずは帳場に顔を出す。

「女将さん、あけましておめでとさんでございます。今年もよろしゅうお願い申し上げます」

「ああ、朱鷺ちゃん、おめでとさん。今年もよろしくたのんわ」

 と、正月の挨拶を交わしてから、控えの間に向かった。そこで化粧を直し、雪に濡れた足袋を替えていると、顔見知りのお姐さんがふらふらした足取りで入って来た。どうやら昨夜の酔いがまだ残っているようである。

「お姐さん、おめでとさんでございます。今年もよろしゅうお願い申し上げます」

 朱鷺が挨拶をすると、お姐さんは「あらぁ」と頓狂な声を上げた。

「梅ふくんとこの朱鷺やない。今朝はいいもん、見させてもらったわ」

「え……」

「久保市乙剣宮の境内や」

 はっとした。

「朝帰りのついでに初詣に寄ったが、元旦から逢引きなんてやるやないの」

「いやや、お姐さん、人間違いやないですか。朝から悪い冗談ばっかし」

 朱鷺は笑ってはぐらかした。すぐ控えの間を出て、朱鷺は臍を嚙む。細心の注意を払っていたつもりだが、やはり隠すのは難しい。

 小さくため息をつきながら襟元を直し、座敷に向かった。

「朱鷺でございます」

 襖を開けると、紅白の鏡餅が飾られた床の間の前で、門倉が仲居相手に盃を傾けていた。門倉は目を細めて朱鷺を見やった。

「おう朱鷺、来たか」

 門倉の隣に進んで、朱鷺は改めて畳に指を突く。

「あけましておめでとさんでございます。今年もよろしゅうお頼み申します」

「ああ、こちらこそよろしゅうな」

 門倉は金沢で大きな材木問屋を営んでいる。年は五十半ば。髪の半分は白く、恰幅がいい。

 元旦に門倉からお座敷の声が掛かった時はほっとした。というのも、年末にはいつも何度も呼ばれるのに、どういうわけか今回はまったく予約が入らなかったからだ。口さがない芸妓たちが「どうやら朱鷺は門倉さんに見限られたらしい」と噂しているのも知っていた。

 門倉の隣に座ると、仲居が硯と細筆を差し出した。まずは簪の鳩に目を入れてもらう。それが習わしである。門倉が細筆を持ち、慣れた手つきで墨を入れた。

「あんやとうございます」

 この簪の鳩に目を入れるのは旦那の役目である。旦那、つまり門倉は朱鷺の十五の時の水揚げの相手であり、以来、さまざまな後ろ盾となってくれている存在だった。

「さ、まずは年明けの一献を」

 朱鷺が酌をし、門倉が受ける。もう付き合いも五年になった。

 時江から水揚げの話を聞かされた時、それがどういうことを意味するのか、朱鷺はほとんど理解していなかった。君香や桃丸から聞かされて、ようやく認識したものの、今度は驚きと不安が募っていった。そんなこと、自分にできるだろうか。

「無理強いするつもりはないが」と、あの時、時江は言った。

「あんたの気持ちがいちばん大事なんやさけ」

 しかし十五とはいえ、朱鷺は自分の立場をわかっていた。芸妓として一本立ちするには費用がかかる。一本立ち後も着物や帯、お稽古代に日用品まで、何につけてもお金がかかる。早く借金を返して自由の身になりたい。田舎にも仕送りしたい。親身になってくれる時江にも負担をかけたくない。信頼できる旦那を持つための水揚げは、芸妓として通らなければならない道でもあった。

 相手は誰なのか、おずおずと尋ねる朱鷺に、時江は門倉の名を口にした。

 門倉には振袖芸者の頃から可愛がってもらっていた。金沢で指折りの資産家だが、誰に対してもえらぶらず、お座敷での振る舞いがこなれている。お金でねじ伏せようとする客の多い中、芸妓との接し方に鯔背が感じられた。その人柄から芸妓衆の評判も上々で、すでに何人かを水揚げしている実績があると聞いている。門倉なら安心して身を任せられそうに思えた。

「どうやろか」

「はい、よろしゅうお願いします」

 それで決まりだった。

 初めての夜、緊張に身を硬くする朱鷺に門倉はあくまで優しかった。無理を通したり身勝手な振る舞いなどまったくなく、むしろ労わるように接してくれ、朱鷺はどんなに安堵しただろう。門倉に頼んだことは間違いではなかったと、五年たった今も心から思っている。

 しばらくするとトンボや他の芸妓たちもやって来て、座は一気に華やいだ。

 トンボは男仕立ての黒留袖に、特別に誂えた金茶の半幅帯を変わり結びにしている。また髪は鮮やかな朱色の帯締めで飾られている。

「門倉さん、おめでとさんでございます。今年もよろしゅうお願い申します」

「こちらこそ、よろしゅうな」

「早速ですけど、お年玉はいつでも受け付けておりますさけ」

 相変わらずトンボは物怖じしない。

「おいおいトンボ、いきなりそれか」

 門倉も慣れたものだ。

「遠慮しないで、豪快にポンっと」

「トンボはもうちょっと遠慮しろ」

 そう言いながらも門倉はすでに用意していて、ひとりひとりにポチ袋に入ったご祝儀を手渡した。そういう気前のよいところもまた、花街での評判の高さに繫がっている。

 杯を重ね、ほろ酔いになった頃、門倉が言った。

「そろそろ舞いを披露してもらおうやないか」

「何を踊りましょう」

「トンボもいることやし『おとこ川をんな川』がいいな」

「承知いたしました」

 一度も相容れぬまま流れゆく川。いわば悲恋を描く舞いだが、金沢の町を支えるふたつの川ということもあり、慶事の意味合いも持つ。

 朱鷺はトンボと並んで、扇子を前に置き、一礼した。

 お姐さんたちの三味線と鼓が始まり、ふたりは構える。をんな舞いの朱鷺は嫋やかに楚々として、おとこ舞いのトンボは力強くそれでいて哀しみを漂わせつつ、ふたりは舞い始める。そしてあてどない男と女になってゆく。

 ふと、浩介の言葉が蘇った。

「僕の嫁さんになってくれんか」

 年季明けは、芸妓にとって身の振り方を考える大きな区切りである。こんな自分がまっとうな所帯を持つなど夢の話だと思っていた。しかし、選びさえすれば自分もそんな生き方ができるのだ。胸の高鳴りと共に、それは朱鷺に確かな夢をもたらしていた。