築地に埋めた“被ばくマグロ”はどこに…白黒写真に手書きで「埋立て場所」 被団協ノーベル平和賞受賞で再注目される「第五福竜丸」

写真拡大

ノーベル平和賞受賞が発表された日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)。被団協設立の契機となったのが、アメリカの水爆実験に巻き込まれ乗組員23人が被ばくした第五福竜丸だった。その第五福竜丸が持ち帰った“被ばくマグロ”の一部が東京・築地に埋められたあと、行方が分からなくなってしまっている。

1954年、マグロが被ばくしていることが発覚し、築地市場はパニックに陥り、場内の地中に埋めたのだが、1996年の都営地下鉄工事の際、埋めたとされる場所を調査したものの、骨のかけらも見つからなかったという。

被ばくマグロは溶けてしまったのか。それとも別の場所にまだ残されているのか? 

「築地の被ばくマグロを調べてごらん」

私が被ばくマグロの取材を始めたのは2019年夏。きっかけは、東京都庁で局長級を歴任した幹部OBからの一言だった。

幹部OBとは20年ほど付き合いがあり、年に数回飲むのが、ルーティーンになっていた。その日は、東京・赤坂の居酒屋で酒を楽しく飲んでいた。幹部OBはいつも都政に関する政策や予算の配分などについて、都庁にやや厳しい意見を私に披露してくれた。OBからすれば、後輩たちを叱咤激励するため、記者の私に都政の課題や問題をレクチャーしてくれていたのだと思う。

その日は、珍しくプライベートな話で盛り上がっていた。すると、幹部OBは雑談を中断して、真剣なまなざしで私の目を見るなり、「築地の被ばくマグロを調べてごらん。被ばくマグロが地中に埋められたまま、築地のどこかにまだ埋まったままなんだよ」と、やや周りを気にするそぶりを見せながら語った。

「ん?築地に被ばくマグロが眠っている?」。第五福竜丸と被ばくマグロは知っていたが、恥ずかしながらそれまで築地に埋められたことは知らなかった。私はすぐに東京・江東区にある第五福竜丸展示館へ足を運び、築地市場の場内に被ばくマグロが埋められたことを認識した。

ノーベル賞平和賞をきっかけに、再注目される「第五福竜丸」

2024年のノーベル平和賞に選ばれた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の設立の契機となったのが、水爆実験で被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の事件だ。

1954年、南太平洋で操業中にアメリカが太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で、放射性物質を含んだ「死の灰」を浴びて乗組員23人が被ばくした。その年の3月下旬から水爆実験反対署名運動が全国に広がり、8月に原水爆禁止署名運動全国協議会結成。そして1956年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成した。

第五福竜丸の乗組員が被ばくと診断されたのが、1954年3月14日。焼津港に陸揚げされたマグロは各地に配送され、16日築地市場にもマグロが送られたが、焼津港からの急報でセリは中止。場内はパニックとなり、被ばくマグロはすぐ市場内の地中に埋められたという。日刊食料新聞の昭和29年3月18日付の報道によれば、マグロの価格は一夜にして大暴落。被ばくマグロが市場に搬入されたという報道で消費者はおびえきっており、契約解除が続出、翌19日付では、サメ、かまぼこなど放射能を浴びていない魚まで売れなくなったと報じていた。当時の魚市場が被ばくマグロショックで深刻な打撃を受けていたことがうかがえる。

放射線への影響を懸念する消費者への情報として、日刊食料新聞は、アメリカの原子力科学研究班が築地で実地検分を行ったが、市場やマグロを埋めた箇所に危険はないと説明したほか、大学の研究者も、ガンマ線による放射反応は極めて微量で、人体への影響はないと答えたとも報じている。

被ばくマグロは確かに築地市場の場内に埋められ、その後掘り起こされていない。まだ、築地市場跡地のどこかに埋まっている。

東京都は1996年、都営大江戸線築地駅の出入口設置工事に伴い、被ばくマグロの発掘調査を行った。当時の資料を元に埋められたと思われる場所を掘り起こしてみたが、骨もかけらもみつからなかったという。

被ばくマグロが見つかれば歴史の教科書レベルの大発見になる。運よく、築地市場は再開発のため更地になっている。まずは現場を見てみようと思い都庁に跡地のなかでの取材を申し込んだのだが、答えはNOだった。

手渡された築地市場の白黒写真…「埋立て場所」と手書き文字が

被ばくマグロの行方はどこなのか?第五福竜丸とともにマグロも被ばくしたという歴史を後世に残そうと活動している、「築地にマグロ塚を作る会」の事務局長・及川佐さんに会うことなった。

及川さんは「もっと広範囲で調査しないとだめです。きっとマグロはまだ埋まっているはずですから」と話す。そして、及川さんから「被ばくマグロを埋めた場所を記している写真です」と、1枚の資料を渡された。写真そのものではなく、コピーされたものだった。

1950年台当時の築地市場の写真に、手書きで「埋め立て場所」の文字と矢印が書かれている。その右上には「野球場」と書かれていた。この資料によれば、野球場の横に埋められたということになる。

当時の報道で、日刊食料新聞も「マグロやサメを市場内野球グランドに地下3メートルの穴を掘って埋めた」と報じている。

埋められた場所がある程度予測できたので、再度東京都に跡地に入っての取材を申し込んだのだが、今回も答えはNOだった。「工事中で立ち入りができない」というのが理由だが、9月、現場を訪ねたが、築地市場跡地は更地となっていて、工事を行っている様子はなく、車両の出入りは私がいた1時間の間で1台もみられなかった。

マーシャル諸島ビキニ環礁で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七(おおいし・またしち)さんは、がんなど様々な病気に苦しみながら核廃絶を訴える活動を続けてきたが、2021年に87歳で亡くなった。

「マグロ塚は石ですけれども、原爆のことをみんなに思ってほしい。核兵器をなくしていかなければ、皆さんも大変なことになるということを知ってほしいと思う」。大石さんは生前、核の怖さを後世に残すため、築地にマグロ塚を設置するべきだと訴えていた。

 「築地にマグロ塚を作る会」事務局長の及川さんは、日本被団協のノーベル平和賞の受賞にあたり、大石さんが知ったならばとても喜んだはずだという。

「ビキニ環礁でのアメリカの核実験から70年を経た今日、この受賞は築地に『マグロ塚を作る会』の20年以上の活動にとっても大いに励みになるものです。
一方、核実験が行われたビキニ環礁で操業していた第五福竜丸以外の被災船の乗組員の方など、今なお救済と補償を求めて闘っている方々のことを忘れてはなりません。私たちは、故・大石又七さんの遺志を引き継ぎ、被爆者の方々と連携し、核なき世界の実現を目指します。同時に私たちは、今後とも築地跡地にマグロ塚の移設を東京都に求める活動を強めてまいります」
(フジテレビ社会部 大塚隆広)