静岡市歴史博物館の大失敗の要因…展示物に足りない「意外な視点」

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静岡市は10月2日、総事業費62億円をかけた「歴史博物館」の2023年度の有料入館者は8万人余にとどまったことを明らかにした。

本来は、入場者数を年50万人と見込んで、歴史博物館を観光誘客の中核施設とする計画だったが、大失敗の結果となった。

目標の6分の1以下という惨憺たる入場者となった大きな理由は、目玉展示となるのが久能山東照宮所蔵の歯朶具足(国の重要文化財)レプリカなどというお粗末な代物しか用意できなかったことである。今後、新たな手を打つことができなければ、「静岡の未来」は真っ暗になってしまうだろう。

レプリカ展示が目玉の博物館がオープンした元凶

2011年から3期12年間市長を務めた田辺信宏氏は、「世界に輝く静岡」5大構想の柱として、「歴史博物館」を最優先の政策課題に挙げた。

田辺市長時代には、とにかく、建設を進めることだけを急いで、施設の内容はおざなりとなった。

そしてついに、2016年度から駿府城天守台跡地の発掘調査がスタート。駿府城天守台が江戸城をしのぐ大天守台であることがわかったのだ。

さらに、2018年度には駿府城天守台よりも古い時代の遺構が見つかった。

この遺構は、1590年家康が江戸に移ったあと、駿府城主となった17万5千石の豊臣秀吉の重臣、中村一氏の天守台(約33m×約37m)跡だった。「大量の金箔瓦」なども見つかり、「駿府城跡地」の歴史的意義はさらに高まっていく。

ところが、静岡市は歴史博物館の建設だけを進めることを優先して、駿府城跡地の活用はおざなりとなった。

このため、川勝知事は「駿府城跡地の遺構が博物館機能を有しているのに、それと無関係の歴史博物館を建設すれば二重投資になる」とする意見書を2度送り、「計画棚上げ」を田辺市長に求めた。

川勝知事は62億円もかける事業をいったん取りやめ、駿府城天守台発掘跡地などをどのように活用するのか、それを最優先に考えるべきことを求めたのだ。

ところが、静岡市は川勝知事の意見を一蹴して、計画を進めてしまい、レプリカ展示が目玉という歴史博物館をオープンさせてしまった。

そのせいで、「歴史博物館」計画の策定当時、有識者委員会で、本物を見せるための「博物館」とビジュアルを「売り」にした「集客施設」を一緒にすべきではないと厳しい意見が出された。

ところが、有識者会議ではそもそも、家康の駿府城時代をコンセプトにした展示に何がふさわしいのか全く議論していなかった。

久能山東照宮と違い、歴史博物館は国宝、重要文化財などは一切、所蔵していない。となれば、「博物館」である必要もなかった。

レプリカだけであれば、映像などをメインにした「集客施設」で十分だったのである。それなのに、「歴史博物館」と名称だけは立派な中途半端な施設をつくってしまった。

結局、展示品は関ヶ原の戦いに着用したとされる久能山東照宮所蔵の家康の歯朶具足や金扇馬印のレプリカなどをつくり、お茶を濁しただけであった。

歴史博物館の再出発の方法

そんな久能山東照宮博物館には、家康の眼鏡、日本最古の鉛筆、コンパス(いずれも国重要文化財)など海外からの贈り物が数多く展示されている。

特に、スペイン初の大使ビスカイノが持参した日本最古の西洋時計(国重要文化財)は非常に有名である。

つまり、久能山には駿府城時代の海外とのつながりを示す文化財が残されている。黄金の駿府城時代と言われた家康の文化財を具体的に伝えなくては、「静岡の未来」と言っても、何かわからないのだ。

家康は1600年春、オランダ船で漂着した英国人ウイリアム・アダムスと大坂城で初めて出会った。航海士だったアダムスは家康にポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどの当時の世界情勢や天文学の知識を伝えている。

関ヶ原の戦いに勝利、天下統一すると、家康は戦乱で荒廃した国内経済の立て直しのために、開国政策を進めて貿易交流を盛んにすることを目指した。

三浦按針として旗本に取り立てたアダムスをマニラに派遣、スペインとの積極的な通商を求めた。

1609年に初のオランダ代表団と駿府城で謁見、家康はポルトガル、スペインに続いて日本との通商を認めた。鎖国したあとも江戸時代を通してオランダとの通商は続いた。

1611年スペイン大使ビスカイノと駿府城で謁見、国王から「西洋時計」などが家康に贈られた。

ところが、たまたま城中でオランダ使節を見掛けたことで怒りを爆発させたビスカイノは、プロテスタント国のオランダとの国交断絶、世界を支配する偉大なカトリックの教えに従うよう家康に求めた。

アダムスから、キリスト教布教と一体化したスペイン、ポルトガルの植民地戦略などを教えられた家康は開国政策を転換して、まず駿府、江戸など幕府直轄地でキリスト教禁令、宣教師追放に舵を切ることになった。

当時、スペイン、ポルトガルは、ローマ教皇の立ち合いの下で、地球をリンゴのように半分に切って、西半分をスペイン、東半分をポルトガルの領分とする取り決めを結び、植民地化を進めていた。

1613年にはスペインと対立するイギリス初の大使サーリスが駿府城を訪れ、通商条約を結んだ。

サーリス大使に手渡した家康の朱印状は、英国のオックスフォード大学ボドリアン図書館に現存している。

朱印状には関税の免除、日本国内の港への行き来の自由、治外法権などイギリスに破格の特権を与えていたことがわかる。

つまり、キリスト教布教、植民地化を求めないイギリス、オランダとの通商を優先して、世界各地で植民地化を進めていたスペイン、ポルトガルとの関係を断絶したのである。

このため、スペインの大使ビスカイノが帰国するに当たって、家康は親書を手渡している。「日本は神と仏の国であり、キリスト教布教を禁じる」旨が記されている。この親書はスペインに現存している。

1614年家康は全国にキリスト教禁令を発布、徹底的なキリシタン弾圧を始めた。このため、ポルトガル、スペインの宣教師や日本のキリシタンなどのカトリック勢力は大坂城の豊臣方を頼った。

大阪冬の陣、夏の陣では、オランダ、イギリスから大砲、火薬類などがもたらされ、徳川方の勝利に結びついた。

大阪の陣は、イギリス、オランダ対スペイン、ポルトガルの戦いの様相が強かったことは当時のイギリス商館長の手紙などでわかっている。

日本の内戦が、世界情勢と密接につながっていたのだ。

駿府城を舞台にした外交が繰り広げられ、その内容を詳しく伝えることで、どうして日本が鎖国に舵を切ったのかなどが理解できる。それが歴史博物館の役割である。

現在、中東の宗教戦争が世界情勢に大きな影響を与えていることを見れば、江戸初期の家康の宗教政策を正しく理解することが「日本の未来」にも重要となるはずである。

本来ならば、企画力を持った館長、学芸部長などの中心スタッフが、収蔵品をどのように収集、展示していくのかなど早い段階で準備を進めるのだが、施設のコンセプトさえ決められなかった。

結局、レプリカ展示のお粗末な施設となり、静岡市関連の「財団」に施設管理を委託している。

このままでは建物に多くの税金を投入しただけの「箱物行政」の典型と批判されるのは間違いない。

久能山東照宮は海外使節団が家康に贈った文化財を所蔵している。

となれば、歴史博物館は家康が海外に発信した文化財資料を集めて、最も光輝いた駿府時代の外交史に焦点を当てた施設として再出発すべきである。

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