大震災で避難した障害者親子の悲喜劇

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1995年、阪神・淡路大震災が障害者を襲う。兵庫青い芝の会のメンバーが在宅訪問をしていた被災障害者は、老いた親ともども大阪市内の早川福祉会館に避難した。中には認知症を患う親もいて、青い芝のメンバーが所長を務める六甲デイケアセンターの職員や、全国から集ったボランティアたちとの悪戦苦闘の日々が続いた。

本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。

『カニは横に歩く』第5回

第4回「問題発言議員に決死のネガティブキャンペーン」より続く

「神戸で死にたい」と訴える83歳の母親

早川福祉会館に来た九人の障害者のうち、天場志信を含め四組が母親とともに避難してきた。親はいずれも70歳以上の高齢であった。

母親の中でも明治45年生まれの森本ハナは、当時83歳で最高齢であった。すでに記したが、息子の正夫は天場志信と同じ脳性マヒで、四肢と言語に障害があり、知的障害者でもある。

ハナは震災前から認知症であった。母子が住む一軒家は、震災で全壊した。二人はすぐに地元の小学校に避難していたが、一週間余りをそこで過ごしたものの、正夫が通所していた六甲デイケアセンターの判断で、大阪に避難することになった。80歳を越えた認知症の老親が、重複障害者の息子を、何をするにも不自由な避難所で面倒を見るには無理があった。しかし度重なる避難場所の移動による環境の変化は、ハナをより混乱させ、また望郷の念をつのらせた。

森本母子が大阪に避難してきてから2日後。私は午前4時にボランティアに起こされた。「ハナさんの様子がおかしい」と言う。親子が宿泊する部屋に行くと、中から鍵がかけられていた。20分間呼びかけ続けると、ようやく開けてくれた。荷造りをしながらハナが言う。

「神戸に帰る。こんなとこ放り込まれて、田中さん(義一、六甲デイケアセンター職員)はあいさつも来んといて……(仮設住宅の)申し込みせなあかん。こんなとこ住まれへん。私は神戸っ子やから。神戸で死にたいねん」

ちなみにハナは鹿児島県・沖永良部島で生まれ育ち、小学校を出る頃に兄たちを頼って神戸に出てきている。唯一聞く音楽は、生まれ故郷の島唄だった。

「どこに帰るの?帰るとこないよ」

私はハナの家が全壊していることを説明したが、そのうち情況判断ができないことに気付き、最後は「わかった。じゃあ明日の朝、帰ろうね」となだめすかしたのだった。

その後もハナは、真夜中や朝方近くに天場親子の部屋をたびたび訪問し、周囲を混乱させた。「家は台所が傾いただけで、あとは大丈夫や」と吹聴したりもした。会話の合間に「はよ、神戸に帰りたいなあ」と嘆息する。全壊家屋での高齢の認知症老人と、知的・身体の重複障害者の二人暮らしは、どう考えても無理があるのだが、それでも神戸に帰りたいとことあるごとに周囲に訴えた。

金銭にまつわる気苦労とトラブル

金銭にまつわるトラブルも頻発した。早川福祉会館に、鍼治療をほどこすボランティアが来ていた。ある日、治療を受けたハナは、ボランティアの鍼灸師に「1000円受け取ってもらわないと治った気がしない。どうしてももらってほしい」と言い張った。その鍼灸師は、いったんは固辞したものの、強引に押し付けるのでとりあえず受け取り、常駐していた救援本部のスタッフに預けた。するとハナは「先生は診てもくれないのに勝手に1000円持っていった」と怒った。自分の言動を即座に忘れ、周囲を煙に巻くのだった。

「部屋からお金がなくなった」と言い張るので手分けして捜したこともあった。小分けして隠すのだが、本人はどこに置いたか忘れてしまっている。そのたびに大騒ぎになった。時にはゴミ箱や冷蔵庫、さらには本人の懐から“発見”されることもあった。

このように金銭に執着するかと思えば、気前よく学生ボランティアに1万円を渡すこともあった。その金はボランティアから救援本部へ、さらにハナの元へと戻る。かくしてハナの金は、関係者の間をぐるぐる回った。

トラブルがあるたびに相談されていた六甲デイケアセンター職員の田中義一は、3月半ばに「森本ハナさんのパニックに関する対応マニュアル」をまとめている。以下はハナが混乱した時の想定問答集の一部である。ちなみに田中も被災者であり、勤務していた六甲デイケアセンターに住んでいたため、大阪に頻繁に顔を出せるわけではなかった。

「神戸の家が気になる、今すぐ帰りたい」

→今度、田中と一緒に神戸を見に行くまで我慢しよう。ゆっくり寝て、ご飯食べないと、体、壊したら神戸を見にいけないよ。

「お金があるかどうか心配、お金を貸してくれ、おろしてほしい」

→田中が通帳をもっているので、今度来たときに頼もう、もし、急ぐなら今からTELしようか。

「早川や大阪の人にお金を払いたい、払わないと心苦しい」

→今はおばちゃん(ハナ=著者註)や正夫さんが地震にあったからみんなやってくれている。神戸に帰ったらいろいろお金がいるのだから、今は、お金をおいておこう。

この他にも、金銭にまつわる想定問答が列記されている。ハナは二度結婚し、いずれの夫とも死別している。女手一つで障害があるわが子を育ててきたハナは、金銭にまつわる気苦労があったからこそ、それにこだわったのかもしれない。震災後は生活の再建に対する不安もあったであろう。

「うち、なんか悪いことしたん」

大阪での生活が二ヵ月近くたった3月半ば、ハナは六甲デイケアセンターの車で、一時的に帰郷を果たした。田中が運転し、ボランティアと私も同乗した。車のラジオから、地下鉄サリン事件を報じるニュースが流れていた。

いきなり全壊した家を見せるのはショックが大きいだろうという私たちの判断で、まずは森本家の最寄り駅であるJR六甲道駅に向かった。駅前で車から降りるとハナが言った。

「ここどこや?」

「六甲やで」

田中が答える。以下は二人のやりとりである。

「家行こか」

「何しに行くんや」

「おばちゃんが帰ろ言うたんやがな」

「豆腐屋つぶれてしもたわ……中華料理屋もあらへん。(私らは)今どこに住んどるん?」

「大阪やがな」

「ここどこ?」

「神戸やがな」

「ひどいなあ。命あるだけましやなあ」

私たちは森本家に向かった。

全壊した家の前に着くと、ハナは前言をひるがえした。

「命あってもしゃあない!」

計算されたセリフであるなら、ハナは天才的な喜劇人である。

ハナが杖をつきながら、恐る恐る家の中に入る。建っているのが不思議なくらいに壁は落ち、ふすまはゆがんでいた。仏壇にそなえてあったリンゴは、萎びてほこりをかぶっている。

「うち、なんか悪いことしたん」

ハナがさめざめと泣きだした。田中が頭に巻いていた、薄汚れたバンダナを差し出した。彼女はそれで涙をぬぐった。

「命あっただけな……」

田中が声をかけた。

「命あっても、どないすんのん!」

田中も私も、そして周囲にいた誰も、ハナの問いに答えることはできなかった。

自立障害者とボランティアの確執

9人の障害者とその親たちの大阪での生活は、ありきたりの表現ではあるが、悲喜こもごもであった。

澤田は介護者には困らなかったものの、7時起床、11時就寝の規則に「施設みたいな生活はしたくない。何時に起きてもええやんか!」と主張し、自立障害者の気骨を見せつけた。

夜更かしする障害者に、あるボランティアが「私はあしたが早いから、あなたは早く寝なさい」と言った。なぜ、ボランティアに合わせなければならないのか。納得できないその障害者に澤田は「そんな人は無視すればいい」と現実的なアドバイスをした。

澤田は、大阪の会議に参加した際、早川福祉会館に立ち寄った福永に怒鳴りつけられたことがあった。福永が早川福祉会館に行くと澤田がいない。介護者と喫茶店に行っているという。福永は怒り心頭に発し「みんなも喫茶店に行きたいのに自分だけ行って。集団行動を乱すな!」と澤田に怒りをぶちまけた。福永は自分が被災地で頑張っているのに、澤田は大阪で楽な生活をしている、と考えていた。

天場志信はボランティアを選り好みするようになり、気に入らなければ食事の介護を拒否した。お気に入りのボランティアや六甲デイケアセンターの鈴木由美や野橋順子がそれを諫めると、たちまち機嫌を直した。

キヨ子は次々と変わるボランティアに対し、志信のしぐさの意味を一から教えることに、最初は喜びを感じていた。しかしそれも度重なると、喜びは疲れに変わっていった。夜中や朝方にハナが部屋に乱入してくるのも疲労を倍加させた。昼間、机につっぷして寝ていることもあった。それでも若いボランティアと冗談を言い合うのが楽しみでもあった。

六甲デイケアセンターに通所し、支える会のメンバーでもあった野橋順子は、天場志信や森本正夫ら、もの言えぬ在宅障害者と自分の今後の生活をどうするかに思い悩んでいた。大阪での生活に慣れてくると、新しく来たボランティア、とりわけ若くてハンサムな男の連絡先を聞くテクニックに磨きをかけた。しかし宿泊している部屋の浴室を何の断りもなく勝手に利用するボランティアにはムカついていた。

同じく六甲デイケアセンターに通所する鈴木由美は、大阪に来た当初、私が早川福祉会館を訪ねると大仰に喜んでいた。しかし、何度も顔を合わせるうちに、次第に素っ気ないあいさつに変わっていった。それだけ交友関係が広がっていた。好きになったボランティアの顔写真をペンダントにしのばせ、思いを募らせていた。

よく言えば個性的、悪く言えば一筋縄ではいかない多様な障害者とその親たちの共同体は、時には不協和音を、時には不思議な協和音を奏でていた。澤田隆司が「ウェン、ウェン、ウェン」と咳をすれば、すぐそばで天場志信が女性ボランティアに「ワォーオオオオ!」と求愛する。すかさず森本ハナが「やかましい!」と突っ込みを入れる。喧噪の中に団欒があった。

誰もが新しい環境に慣れ、同時に疲れていた。

第6回「どんな社会を築くのか――介護保障をめぐる議論」に続く

どんな社会を築くのか――介護保障をめぐる議論