「核持ち込み」で波紋呼ぶ石破新政権「対米従属」加速の予感…!自民党が「隠し通してきた」衝撃的な「ウソ」に唖然…「野党は何をしていたのか」

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知らぬ間に「米国のミサイル基地」と化していた日本

日本にとっての「最悪のシナリオ」とは?

政府による巧妙な「ウソ」とは一体…?

国際情勢が混迷を極める「いま」、知っておきたい日米安全保障の「衝撃の裏側」が、『従属の代償 日米軍事一体化の真実』で明らかになる。

※本記事は布施祐仁『従属の代償 日米軍事一体化の真実』から抜粋・編集したものです。

冷戦終結と戦域核兵器の撤去

1983年に米国が地上発射型中距離ミサイル「パーシング2」と「グリフォン」を配備して以降欧州で高まっていた戦域核兵器をめぐる米ソの緊張は、1987年に解消されることになります。

転機となったのは、1985年のミハイル・ゴルバチョフのソ連共産党書記長就任です。停滞した国内経済の立て直しに向けて「ペレストロイカ」と称する大胆な改革に乗り出したゴルバチョフは、米国との軍拡競争で膨れ上がった軍事支出を減らすため、米国との軍備管理交渉に積極的な姿勢で臨みます。

その結果、1987年12月に開かれた米ソ首脳会談で、射程500キロから5500キロまでの地上発射型中距離ミサイルを双方が完全廃棄する中距離核戦力(INF)全廃条約が結ばれたのです。

これにより、米国は32基の発射機と846発の核ミサイル、ソ連は117基の発射機と1846発の核ミサイルを廃棄することになりました。それを検証するために、相互にミサイル関連施設などの査察を行う制度も設けられました。

しかし、米国がソ連の地上発射型中距離ミサイルなどに対抗するために配備した核トマホークはそのまま残りました。

その後、1989年11月に冷戦の象徴とも言える「ベルリンの壁」が崩壊し、翌月には地中海のマルタ島で会談した米ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を宣言。翌年10月には、東西ドイツが統一を果たします。

こうした雪解けムードの中、米ソは1991年7月、双方が保有する戦略核弾頭を6000個、ミサイルや爆撃機など運搬手段の保有数を1600にまで削減する「第一次戦略兵器削減条約(START1)」を締結します。

さらにこの2ヵ月後、ブッシュ大統領は、米国の一方的措置として世界中に配備している戦域核兵器の大部分を撤去すると発表します。これには、米軍艦船に搭載している核トマホークも含まれていました。翌年7月、ブッシュ大統領は米軍艦船から核トマホークを含むすべての戦域核兵器を撤去したと発表しました。

米軍艦船からすべての戦域核兵器が撤去されたことで、日本では、「核持ち込み問題」がクローズアップされることはなくなりました。

それが再びクローズアップされるようになるのは、2000年以降のことです。

「核持ち込み問題」の再登場

大きなきっかけとなったのは、米国政府の外交記録公開でした。

米国務省は1990年代終盤、核持ち込み密約が記された1960年の藤山外相とマッカーサー大使の「討論記録」を機密解除し、国立公文書館で公開したのです。これを入手した日本共産党の不破哲三衆院議員(同党委員長)が、国会の党首討論で恵三首相を追及しました。

不破は米側の公文書を根拠に質問したにもかかわらず、小渕首相は「そのような密約なるものは存在しないことは歴代の総理、外相が繰り返し明確に述べており、私も確信を持って密約でないと今ここで申し上げたい」と全否定した上で、「核持ち込みの事前協議が行われない以上、米国による核の持ち込みがないことについて何らの疑いも持っておりません」と従来どおりの答弁を繰り返しました(2000年3月29日、国家基本政策委員会合同審査会)。

この9年後(2009年)、4人の外務次官経験者が匿名で核持ち込み密約の存在を認める証言を行ったと共同通信が報じます。そのうちの一人、村田良平は途中から実名に切り替えて証言しましたが、それでもなお政府は密約の存在を否定し続けました。

民主党政権が行った密約調査

事態が大きく動いたのは、この年の夏でした。

8月の総選挙で民主党が大勝し、政権交代が実現したのです。自民党は下野し、民主党を中心とする連立政権が誕生。首相には鳩山由紀夫が選出されました。そして、鳩山内閣の外相に就任した岡田克也が最初に行ったのが日米同盟に関する密約の調査でした。

調査の結果、米国立公文書館で公開されている「討論記録」と同じ内容の文書が外務省内にも保存されていた事実が発覚します。

外務省は、核兵器を搭載した艦船等の寄港を事前協議の対象外とするという米側の「討論記録」の解釈に日本側が同意した事実を示す証拠は見つからなかったと結論付けました。

一方、岡田外相が任命した有識者委員会は、「日本政府は、米国政府の解釈に同意しなかったが、米側にその解釈を改めるよう働きかけることもなく、核搭載艦船が事前協議なしに寄港することを事実上黙認した」として、「暗黙の合意」という広義の密約が存在していたと結論付けました。

岡田外相も「従来どおり核の持ち込みがなかったと言い切ることはできない状況であり、その疑いを完全に払拭することはできない」と述べ、「この問題がこれほどの長期間に亘り、また、冷戦後の時期に至っても、国会及び国民に対して明らかにされてこなかったことは、自分としては極めて遺憾」と語りました(2010年3月9日、記者会見で)。

政権交代し、それまで歴代の自民党政権がつき続けてきた嘘をただしたのには大きな意義がありました。

しかし、その後の処理の仕方には大きな問題が二つありました。

放置された日米間解釈の「不一致」

「討論記録」の解釈をめぐって米側と解釈の不一致があったと結論付けたにもかかわらず、その不一致を解消せずに放置したのです。岡田外相は次のように説明しました。

「今回のこの調査によって、日米の違いがあるということが対外的にも明らかになったということであります。しかし、幸いにして1991年以降の米国の核政策の変更によって、今、具体的に何かそれが問題になるということではないということです」(同前)

先ほど述べたとおり、米国は1992年に米軍艦船から核トマホークを始めとする戦域核兵器をすべて撤去しました。よって、「討論記録」の解釈をめぐり日米間に不一致があっても、具体的な問題になることはもうないというのです。

でも、はたして本当にそうだったのでしょうか。

岡田がこの発言をした時点では、確かにそうだったかもしれません。しかし、米国が中国の戦域核兵器に対抗するため、再び潜水艦に搭載する核巡航ミサイルを開発・配備する可能性は否定できません。

そうなった時、米国は自らの「討論記録」の解釈に従い、かつてと同じように事前協議を行わずに核巡航ミサイル搭載艦を日本に寄港させる可能性があります。これが、一つ目の大きな問題です。

岡田外相の「矛盾」した答弁

もう一つの大きな問題は、「核兵器持ち込みの事前協議がされた場合は、非核三原則に従って拒否する」というそれまでの日本政府の立場を大きく転換するような国会答弁を岡田が行ったことです。

その答弁は、自民党の岩屋衆院議員(後に防衛大臣)の質問に対してなされたものでした。

岩屋は、今は現実的にその可能性がないからといって、核兵器を搭載した米軍の艦船や航空機の寄港を黙認する「暗黙の合意」をそのまま放置しておくことは「本来、この調査をやった後の結論としてはふさわしくないと思う」と語り、将来緊急事態(有事)が発生し、米軍が核兵器を搭載した艦船や航空機を日本に寄港させようとした場合の対応をあらかじめ決めておくことを提案しました。

これに対して岡田外相は、次のように答弁しました。

「委員御指摘の、では、緊急事態ということが発生したときにどうするかということであります。我々は、非核三原則を守るというふうに申し上げております。非核三原則というのは、それは国民を守るために非核三原則ということを我々は主張しているわけでございます。余り仮定の議論をすべきでないと思いますが、緊急事態ということが発生して、しかし、核の一時的寄港ということを認めないと日本の安全が守れないというような事態がもし発生したとすれば、それはそのときの政権が政権の命運をかけて決断をし、国民の皆さんに説明する、そういうことだと思っております」(2010年3月17日、衆議院外務委員会)

岡田外相は、緊急事態(有事)の際には、政府が米軍の核兵器搭載艦の一時寄港を容認することもあり得ると答弁したのです。この答弁に岩屋議員は「今日は、そこまでの話が聞けてよかった」と語り、「万やむを得なき場合には、非核三原則の一部にその例外が生じることがあってもやむを得ない、これは当然、そういう判断に立ってしかるべき」と賛意を示しました。

2022年3月7日の参議院予算委員会で岸田首相は、この岡田答弁を「岸田内閣においても引き継いでいる」と明言しました。

日本政府は表向き「非核三原則を堅持する」と言い続けていますが、核兵器を搭載した米軍の艦船や航空機の一時的な立ち寄りを公式に認める「非核二・五原則」化への布石はもう打たれています。

>>つづく「石破新政権誕生で「リアリティ」増す日本の「核持ち込み」…!辺野古で進む「弾薬庫」建設のウラに「不気味すぎる」米国の影…」では、辺野古で着々と進む弾薬庫建設の裏側に迫ります。

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