いつか必ず死んでいく私たち全員の大問題…「この世」からいなくなるとはどういうことか

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

「死ぬ」とはなんですか

「自己をふり返る」というのは私たちにとってとても大切なことである。しかしそれは簡単なことではない。そのときに紹介したパスカルのことばを借りて言えば、自己を見つめることは、自己の死、悲惨、無知を見つめることにつながるからである。そのために私たちはむしろ自己から目を逸らそうとする。むしろ「気晴らし」に生きようとする。しかし、いくら目を逸らしても、私たちは私たちの生に死がまとわりついていること、あるいは、私たちの知には限界があることを意識せざるをえない。「生と死」、これは私たちが生きていく上でもっとも根本的な、そして切実な問題であると言うことができるであろう。本書をしめくくるにあたって、この問題を取りあげることにしたい。

人間がこのような状況のなかにあるということ、つまり、死や有限性を免れないという人間が置かれている根本的な状況を、三木清は「虚無」ということばを使って言い表した。三木は多方面にわたる仕事をした人である。さまざまな側面をもつ哲学者であったと言ってもよい。一時はもっぱらマルクス主義に関する論文を発表し、そのような立場から日本の思想界に非常に大きな影響を与えた。しかし三木がヨーロッパ留学から帰国し、一九二六年にはじめて出版した著作はそれまでと一転、『パスカルに於ける人間の研究』と題されたものであった。また三木は一九四五年に治安維持法違反の容疑者をかくまい、逃亡させたという嫌疑で検挙され、敗戦後も釈放されることなく、九月二十六日に獄中で亡くなった。そのときに残した遺稿は『親鸞』と題するものであった。

三木は一九四一年に『人生論ノート』という本を出版している。これは雑誌『文学界』に発表されたエッセーを集めた随想集であるが、戦中、戦後を通じて多くの版を重ね、非常に多くの読者を見いだした。おそらくそういったものが求められていた時代であったのであろう。そこで三木は幸福や孤独や偽善など、さまざまなテーマについて書いているが、「人間の条件について」と題したエッセーがそのなかにある。そこで三木は、「自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。自己は虚無の中の一つの点である」と記している。

「虚無」という怪物

人間は巨大な虚無に取り囲まれている、虚無という果てしない海の上に浮かぶ小さな船のようなものだということが言われている。この人間を取り囲む「虚無」こそが、人間の条件であり、その上に人間の生は成り立っている。したがってそれとの関係を無視しては、人間とは何かということを理解することができないと三木は主張する。

それでは三木清はいわゆる虚無主義者であったか、つまりこの世界に存在する意味や生きる目的を認めなかったかというと、そうではない。三木の一年後輩であり、親しい友人であった谷川徹三が、三木没後に発表した「三木清」という文章のなかで、「人生の底の虚無に絶えず脅やかされながら、人生には何もないのではない、何かがあるのだ、ということを絶えず自分自身にたしかめないではいられない存在」であった、そういう意味で「メタフィジシァン」(metaphysician, 形而上学者)であったということを語っている。

とくに死の問題を考えたとき、私たちは自らの存在の不確かさを、そしてその根底にある無限の深淵を思わざるをえない。しかしメタフィジシァン、あるいは哲学者というのは、その虚無が言わば底なしの虚無ではなく、そこに何かがあるに違いないと考えずにはいられない人のことだという谷川の洞察は、たいへんおもしろい。実際、三木という人物、三木という哲学者をよくとらえたことばであるように思われる。三木の思索には、つねにこの「虚無」の影がつきまとっていたが、他方、その背後に何かがあるはずだと考え、格闘しつづけた人でもあった。

さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。

日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」