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高齢者が高齢者の親を介護する、いわゆる「老老介護」が今後ますます増えていくことが予想されます。子育てと違い、いつ終わるかわからず、看る側の気力・体力も衰えていくなかでの介護は、共倒れの可能性も。自らも前期高齢者である作家・森久美子さんが、現在直面している、95歳の父親の変化と介護の戸惑いについて、赤裸々につづるエッセイです。

【写真】「モール温泉」に入れる、ホームのお風呂の暖簾

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前回〈95歳、衰弱した父が入院して3ヵ月で回復してきた。退院後にどこに住まわせるのか?施設は介護放棄か、賃貸で受け入れは無理か…〉はこちら

プライドの高い父の姿が戻ってきた

2023年の秋、私は父に有料老人ホームに入居してもらうことを心に決めて、父が入院している病院に向かった。車で40分位の距離を何度も通ったのに、面会や洗濯物の受け取りに行っていた時の気分とは違う。心臓がドキドキして、ハンドルを握る手に力が入る。

60年以上住み続けた家を離れる決意が父にできるだろうか? 重い病気を抱えているのではないけれど、父の体力が落ちてきているのは、95歳という年齢を考えれば当然のことだ。しかし父がそれを認めたくないのは日頃の態度でわかっていた。

父は自身がイメージする「格好いい男性」であるために、自分の足で歩けるのが必須条件だと思っている。今は「要介護2」なのだが、自分のプライドを守るため、入院している間に歩行訓練を頑張った。その甲斐あって車椅子を卒業し、杖を突いて歩けるようになったのは立派だと思う。

でも、自分の能力を父が過信しているからこそ、医師は「24時間見守りが必要です」と言ったのだろう。仕事で私が父のそばにいない時に転倒するかもしれないと思うと、ケアサービス付きの施設に入るのが一番安心だ、と父に言わなければならない日が、いよいよやってきたのだ。

病院に着くと受付で面会の手続きをして、父のいるフロアにエレベーターで上がった。ラウンジで待っていると、看護師さんに付き添われた父が、ゆっくりだがしっかりとした足取りでやってきた。杖は突いていない。

ラウンジにあるテーブルに向かい合って座り、頼まれていたチョコレートの箱を開けて勧めると、父は立ち上がって言った。

「手を洗ってくる」

ラウンジに備え付けの洗面台に行き、手を洗ってペーパータオルで拭いてから戻ってきた父を私は褒めた。

「パパ、杖を突かないで歩けるようになったんだね。ちゃんと手も洗うし、偉いね」
 父は途端に不機嫌な表情を浮かべて言った。

「あぁ、俺は、足は丈夫だ。それに、何か食べる前に手を洗うのは常識だ。子ども扱いするな」

反抗期の少年のような態度をとるのは、認知症になる前の父の常だったから、腹は立たない。むしろ私は、父らしさが戻ってきたことをうれしく思った。

俺のことを一番よく知っているのは、おまえだ

父は板チョコを二口食べただけで、夕食が食べられなくなると困るからもういらないという。私はチョコを口に運びながら、世間話をする口調で言った。

「私の家の近くに、すごく環境の良さそうな老人ホームを見つけたんだけど、一緒に見に行かない?」

案の定、父は顔を曇らせた。

「気が進まないな」

私はその施設の良いところを並べ立てた。

「デイサービスが同じ敷地内に併設されているから、週に2回くらい行けば、きっと気分転換になるよ。お風呂は天然温泉なんだって」

「温泉」と聞いて父の表情が緩んだ。何か聞きたそうだ。

「温泉はいいな…‥でもそういうところは、高いんじゃないか?」

「いや、ネットで見たら、初期費用は敷金と前家賃だけしかかからないって書いてあったよ。頭金が何百万とか必要なところでないのは確かだわ」

父はつぶやいた。

「温泉に入りたいな。おまえがそこを見てきてくれないか。お前が見て実際にいいところだったら、俺も見学に行く」

「そうだね。まずは見てくるね」

しばらく雑談をしてから私は言った。

「病院には、施設のことに詳しいソーシャルワーカーさんがいるから、ほかの情報を聞いて帰るね」

「あぁ、そうしてくれ。おまえがいいと思うところでいい。俺のことを一番よく知っているのは、おまえだ」

ソーシャルワーカーに施設選びの相談

今までと違う生活をすることに躊躇しながらも、私に判断を委ねる決意をするまでの父の心情を思いやると、切ない気持ちになった。

人の手を借りないで生きられる能力が失われてしまったことを自覚した、諦念が表情に現れている。

父の病棟から1階に降り、ソーシャルワーカーの男性に、父が老人ホームに入居する方向で検討していいと言ったことを報告した。彼は私に言った。

「お父様がご自身で、生活の見守りが必要だと自覚されたのは立派ですね。私もお父様とお話しして、意思が固まってきたと感じていましたので、参考になりそうな施設のパンフレットを取り寄せておきました」

渡されたパンフレットを見ると、どこも立派な設備やおいしい食事、ケアサービスの充実をうたい文句にしている。じっくり読んでいるうちに、だんだん高齢者施設の多様性と、介護サービスの違いがわかってきた。

私は彼に聞いた。

「実際にこちらの患者さんが退院後に入居された実績がある施設ですか?」

「はい。どこの施設も私が実際に見に行ったこともありますし、入居者さんの評価も聞いています」

一通り目を通してから、私がネットで候補に選んだ施設について、彼の意見を求めた。

「父のところにできる限り顔を出したいし、たまには私の家でも一緒にご飯を食べたいので、私の家から近い施設を探しました。その中でここが一番条件に合うと思うのですが、専門家から見てどうですか?」

「うちの病院を退院してそちらに入所した方が何人かいらっしゃいますが、悪い評価は聞きませんよ」

私は安心材料をもらえてほっとした。ソーシャルワーカーは、私が候補に挙げた老人ホームの営業担当者と繋がりがあるという。彼が担当者に連絡を取って調整をしてくれて、見学に行く日が決まった。

私も入居したくなる施設を見つけた

見学の日、受付で名前を告げて中に入ると、掃除の行き届いたロビーと廊下の広さに驚いた。見とれているうちに、待機してくれていた営業担当相談員が現れ、彼の案内で、応接室に通された。

テーブルには施設の説明書が置かれている。これからこの部屋で2時間かけて概要を説明してくれるという。私は相談員にお願いした。

「設備をご説明いただいた後、共用部分と居室を見学させてもらってから、ケアサービスやほかの詳細を教えていただけますか? 施設を見学するのは初めてなので、目で見ないと実感が持てないものですから」

相談員は快く応じてくれた。

「そうですよね。では、先に見学をしましょう」

相談員と共に廊下に出ると、応接室のすぐ前には浴室があり、銭湯のような暖簾がかかっている。男湯は今、入浴中の方がいるため、女湯を見せてもらうことになった。

「男性用と基本的には同じですが、女性用の方が洗面台の数が多いのですよ。みなさん、上がってからゆっくり髪を整えますから」

私は脱衣所や洗面台だけでなく、浴室も見てみたいと頼んだ。

「どうぞ、どうぞ」

バリアフリーの浴室は、広くてのんびり入れそうだ。父は認知症になってから、どういうわけかお風呂が大好きになった。

家にいた時は、父の高血圧を心配して、入浴前後に私が血圧を測っていた。20分も浴槽に入りっぱなしの時がよくあって、私が浴室のドアの前で「大丈夫?」と何度も声をかけていたのを思い出す。私は相談員に聞いた。


退院後、一度も使っていない杖

「温泉、色がついていますね」

「モール温泉なんですよ」

モール温泉とは、植物性の有機物を多く含む、北海道には割と多くある温泉のひとつだ。泥炭地をあらわすドイツ語の「モール」から名付けられたらしい。お湯は琥珀色で、入ると肌がすべすべになるから、私はモール温泉が好きだ。思わず相談員に聞いてしまった。

「私も入らせてもらえますか?」

相談員の人は真顔で私に訊ねた。

「森さん、要介護認定を受けていますか?」

「いいえ」

「うちは要介護1以上でなければ入居できませんし、ご家族の入浴はできないことになっています」

バカな質問をしたことに顔を赤らめながら、次の見学場所に向かった。110室ある居室のの人数に対応できる広くて清潔感のある食堂。厨房では多くの調理スタッフがきびきび働いている。食堂の隣にはアトリウムがあり、植物に囲まれながら椅子に座って本を読んでいる方もいた。

車椅子が2台すれ違える廊下を通って、ストレッチャーが収容できる広めのエレベーターに乗ると、居室の内覧をする前に私は大満足だった。

父が入院前まで暮らしていた家の寝室は広かったので、広めの部屋に入居させて、ストレスのないようにしてあげたい。

最後に居室を見せてもらう。広いクロゼット、バリアフリーのトイレ、大きな窓。小さなベランダも付いている。父はきっと気に入ると確信できた。

応接室に戻り、敷金と前家賃などの料金体系と、どのような見守りサービスがあるのかを聞き、デイサービスの見学もさせてもらった。

施設が父の意思を確認する必要性

説明後、相談員に言われた言葉でハッとした。

「ご家族が気に入ってくださっても、お父様がどうお思いになるかはわかりません。まずご家族が、お父様にご報告をなさってください。お父様が同意されたら、私どもがお父様の面会に行きます」

私は、施設側が病院に面接に来るとは思っていなかったため、落とされることがあるのだろうかと心配になった。

「え? なぜ、父が見学に来る前に面接があるのですか?」

「病院からお父様の健康状態や生活ぶりも伺っていますから、特に問題はないと思いますが、お父様の意思を尊重しなければなりません。お父様自身の意思を確認せずに入居を決めることはできないのです」

「はい、わかりました」

「面接の日取りについては、病院のソーシャルワーカーに相談して決めますので、ご家族のお立合いは必要ないです」

「よろしくお願いいたします」と言って、私は施設を後にした。翌日、見学した感想を父に伝えに行った。

秋晴れの空が見える病棟のラウンジで、父は穏やかな表情で私の報告を聞くと、やはり温泉に反応した。

「モール温泉は好きだ。ちょっとヌルっとした感じで、肌にいいんだよな。ヤマメ釣りをしていた頃、何回か十勝のモール温泉に入ったことがある。懐かしいな」

「パパがそのホームに入る気があるかどうか、施設の人が面会に来てくれるらしいよ」

父は笑顔で答えた。

「俺は、毎日、暇だ。『サンデー毎日』さ。いつ面会に来てくれてもいい」

(つづく)