80年代に子役として大ブレイクした間下このみさん。中学生になると学業に重点をおきつつ、25歳で結婚。その後、待ち望んだ妊娠に幸せを噛み締めながら日々を過ごすなか、安定期に入った矢先に状況が一変します。

【写真】「あの子役がもう高校生のママ!」間下このみさんの「知られざる」現在の姿

「どうしてだろう…」と医師の顔が曇り


── 2004年、25歳のときに結婚。2006年4月に妊娠を公表されて、わが子の誕生を心待ちに過ごしている最中、同年5月、妊娠6か月に近づいたときに死産されたと聞いています。死産がわかった経緯について伺っても大丈夫でしょうか?

間下さん:安定期に入ったので安心していた矢先でした。お腹をよく蹴るし順調に育っていましたが、今日はあまり胎動を感じないな、と思う日があったんです。インターネットで調べてみると、胎児が寝ていることもあると書いてあったのでいったん様子を見ることに。それでも状況が変わらなかったので、異変を感じてから3日後に病院を受診しました。

病院でエコー検査をすると、いつも冗談を言う先生の顔が一瞬、曇ったんです。不安になりながら先生の言葉を待つと、「どうしてだろう…。赤ちゃんが亡くなっていますね…」と告げられました。

これは自分のせいだ。もっと早く受診していれば助けられたかもしれない。当時、胎児の名前を「コッコちゃん」とつけていましたが、「コッコちゃん、コッコちゃん…!」と名前を叫びながら、その場で泣き崩れてしまいました。主人にも家族にも、何よりコッコちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいになって。

── 大変な思いをされて。

間下さん:それでもお腹の中にいる子を出さないといけないので、後日、大学病院に行って出産することが決まりました。ちょうどGW期間中だったので、先生から死産と告げられて3、4日後に産むことになりましたが、その数日間はすごく幸せな時間だったんですよ。本来だったら出産してその後の人生を一緒に生きていくはずでしたが突然、旅立たれてしまった。つらくて虚しくてどうしようもないのですが、あと数日間、少しでもお腹の中に入れておきたいし、コッコちゃんと一緒にいられる嬉しさも感じていたかった。泣かない子どもを産むとわかっていても、私の力でこの世に生んであげることに幸せも感じました。

その後、死産用の陣痛促進剤を打ち、39度の高熱を出しながらひと晩かけて出産しました。

── お子さんとは対面されたのでしょうか?

間下さん:最初は亡くなったわが子を見るかどうかすごく迷ったんですよ。どんな形をしているのか。どんな顔なのか見るのが怖かったですし。でもやっぱり出産した後は顔が見たくなって病室で会わせてもらいました。280グラムの男の子でしたが、すでに人の形をしていて手足もわかる。足の形は主人に似ているなと思ったし、涙でどうなるかと心配でしたが、意外と私も主人も笑顔で子どもと対面することができました。

ただ、次につらかったのが子どもを火葬場に連れて行くときですね。出産から2日後くらいにはわが子を小さい箱に入れて火葬場に連れて行くことになったんです。そのときの気持ちはいま思い出してもなんとも言えない…。まさか自分の子どもをこうした形で見送るなんて想像もしていなかった。生かせてあげられなくてごめんねと、いまでも思います。

ホームページで抗リン脂質抗体症候群を公表し

現在、高校生の娘さんと

── その後は家で塞ぎ込む日々が続いたそうですね。

間下さん:1か月くらい家に閉じこもりましたね。なんで私だけこう言う目にあわないといけないんだって正直思いましたし、何もする気になれなかったです。でも、しばらくすると、勇気を出してインターネットで「死産」と検索してみたんです。世の中にはたくさん死産を経験した人もいることも知ったし、私だけじゃないんだ、とも思いました。

時間と共に少しずつ日常を取り戻していきながら気持ちが落ち着いてきたころ、新たな命を授かりたいと思ったときに、再び妊娠したことがわかりました。そのため、死産のときにお世話になった大学病院に伺うことにしました。

── 前回の状況がわかっている病院で。

間下さん:はい。先生は前回のこともあるので、通常は妊娠でそこまで検査しないと思いますが、。万全を期して血液検査もさせてほしいと。その検査で、私が「抗リン脂質抗体症候群」だということがわかりました。自己免疫疾患のひとつと言われ、全身の血が固まりやすく、妊娠中は胎盤の血管にも血栓ができて胎児に血液が供給されなくなり、流産・死産になるケースもある。不育症の原因のひとつだと聞きました。

── そこから治療の日々が始まったのでしょうか?

間下さん:出産までの数か月、毎日ほぼ同じ時間帯に病院に行って、血液をサラサラにする注射を打つことになりました。注射をしても体が必ずよくなるとは限らないと説明を受けましたし、何より注射が大嫌い。子どものころ、注射が合わずに倒れてしまったことがあるくらいでしたが、1回目の妊娠のときのような後悔はしたくないと思い、治療を決めました。毎日通い続けるのは大変でしたが、それ以上に子どもの命を生かすために動いているような、精神的安定剤のような感覚が強かった気がします。

── 治療開始と共に、ホームページで抗リン脂質抗体症候群について公表されました。

間下さん:当時は「抗リン脂質抗体症候群」で検索しても情報が少なかったんです。でも、私がホームページで死産を報告したときに「私も死産を経験しました」と励ましのメールをたくさんいただきました。もしかしたらほかにもこの病気の方がいるんじゃないか。「こんな病気があるんだよ」と、ひとりでも多くの人に知ってもらえたらと思い、公表することにしたんです。

いっぽうで、公表することによるプレッシャーはもちろんありました。もし私が再び死産してしまったら、この病気は子どもが産めない病気なんだと間違って認識されてしまうかもしれないし、誰かを傷つけてしまう可能性もある。絶対に産まなくてはといったプレッシャーはありました。

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母になって…やっぱり強くなりますね


── 妊娠後期になると、抗リン脂質抗体症候群を患った人が合併しやすい、全身性エリテマトーデス(免疫システムが誤って自分の正常な細胞や組織を攻撃する自己免疫疾患)を発症しました。

間下さん:手足が腫れて痛みが出てきたんです。本当は胎児がもう少し大きくなってから出産と思っていましたが、体が既に悲鳴を上げていました。万が一のことも覚悟しながら、予定日より1か月早く帝王切開で出産。全身麻酔から目が覚めて娘と対面したときは、自然と涙が出ましたね。動いているわが子を見て…前の子はそうじゃなかったから、よけいに「ありがとう」と。やっと母親になれたんだという安堵感が強かったです。

── 大変な思いをされて出産されました。現在体の調子はいかがですか?

間下さん:普通に日常生活が送れていますが、自己免疫疾患なので、ずっと観察する必要があります。いまも病院に通いながら神経質にならない程度に気をつけながら過ごしています。

PROFILE 間下このみさん

ました・このみ。1978年生まれ。東京都出身。2歳よりモデル事務所に所属。4歳で出演したキッコーマンCM『がんばれ玄さん』で脚光を浴び芸能界入り。ドラマ、CM、舞台と幅広く活躍。中学入学と同時に学業に専念。04年に結婚して1児の母。

取材・文/松永怜 写真提供/間下このみ