石川祐希選手

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 長年、男子バレーを応援してきたファンにとっては、夢のような状況といえるかもしれない。

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 異常ともいえるほどの人気はもはや国内にとどまらず、海外でも多くのファンを獲得していることはすでによく知られている通りだ。高橋藍選手に代表されるルックスの良さやアニメ「ハイキュー!!」の影響もあるだろうが、それ以上にやはり実力が伴っている点も大きい。

 7月8日、パリ五輪壮行会で320人のファンを前に先陣を切ってあいさつしたのは、キャプテンの石川祐希選手(28)だ。

「パリにはメダルを取りに行く。絶対に持って帰ります」

 力強いメダル宣言を口にしたのだ。

石川祐希選手

 実際、現在の日本代表ならばこれも大言壮語とは受け止められないだろう。7月1日まで行われていたネーションズリーグでは銀メダルを獲得。世界ランキングを2位まで浮上させ、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。

 これまでにも、アイドル的な人気を博す選手はそれなりにいたのだが、ここまで「強さ」も誇れるようになったのは実に久しぶりのこと。

 ご高齢の方なら記憶にあるだろうが、かつて日本男子バレーが五輪で輝いていた時代があった。東京オリンピック(1964年)は銅、メキシコオリンピック(1968年)で銀、そしてミュンヘンオリンピック(1972年)では金を獲得していたのだ。しかし、このあと五輪ではメダルを獲得できず、最終予選敗退に終わることも珍しくなくなった。

 日本男子バレーが五輪メダルから遠ざかってすでに半世紀が過ぎたというわけである。それだけに、石川選手の「メダル宣言」は何とも頼もしい限り。色はともかくとして、獲得できれば快挙なのは間違いない。

 それにしても、半世紀前、今よりもはるかに体格が恵まれない日本チームがなぜ金メダルを獲得できたのか。

 ここでご紹介するのは、ミュンヘンオリンピックを巡る貴重な記録だ。当時、日本代表の武器の一つが「天井サーブ」。秘技はいかに生まれ、チームはいかに頂上に登りつめたのか。ノンフィクション作家・小林信也氏によるドキュメントである。

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(「週刊新潮」2021年7月8日号をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のものです。)

遊びから生まれた「天井サーブ」

 1972年のミュンヘン五輪、バレーボール男子日本代表に胸躍らせた世代なら、誰もが一度は、“天井サーブ”をまねした経験があるだろう。

 下手から天井に届くほど高々とボールを上げ、敵のリズムを崩す幻惑サーブ。“世界一のセッター”と呼ばれた猫田勝敏の代名詞だ。

(ミュンヘン五輪に向けて、独特の武器が欲しい……)

 そう考えていた時、ふと思い出したのが、広島・崇徳高校時代の遊びだった。体育館の天井にある照明灯にボールをぶつけて遊んだ。

(あれをサーブに使えないか?)

 そんなひらめきを、本当に採り入れてしまう大胆さと遊び心が、猫田にはあった。

 猫田は44年、広島県安佐郡古市町(現・広島市)に生まれた。原爆投下の1年前。自宅は幸運にも戦火を免れた。広島は戦前からバレーボールが盛んだ。自宅裏の小学校には、10面を超えるバレーコートが並んでいた。そんな恵まれた環境で猫田はバレーと親しんだ。総合的には素質があったともいえない。身長は成人になっても179センチ、大きくはない。ジャンプ力もどちらかといえばない方だった。

「お前はバネがないから、かかとをつけずに歩け」

 と中学の先生に言われれば、自宅と学校、片道4キロを爪先立ちで歩くような少年だった。ただ一つ、トスのセンスはずば抜けたものがあった。高卒後、地元の専売広島(現・JTサンダーズ広島)に入社してバレーを続けた猫田は、全日本が広島で試合をするとき、球拾いで連れて行かれた。無名の18歳が練習に参加を許されると、すぐに監督、コーチ、それに選手たちも目を丸くした。

「トスを上げるとき、ボールに入るスピードが速い。動きがやわらかくて、身体の芯が崩れない」

 みんなの一致した驚きだった。猫田がトスを上げる姿は美しく、しなやかだ。

タクシー運転手の衝撃発言

 日本代表の末席に迎えられ、猫田は64年東京五輪に出場した。当時は2人セッターが主流、猫田は補助セッターと呼ばれる2番手役だった。

 東京五輪では“東洋の魔女”女子バレー日本代表が 金メダルを取り、日本中に大きな歓喜をもたらした。決勝のソ連戦のテレビ視聴率は66.8パーセント。いまもスポーツ中継史上最高の数字を記録している。

 同じ東京五輪で男子バレーも健闘した。10カ国総当たり戦、ハンガリー、チェコスロバキアには苦杯をなめたが、優勝したソ連に土をつけ、強豪ルーマニア、ブルガリアにも勝った。7勝2敗で堂々の銅メダル、立派な快挙だった。

 しかし、この銅メダルが後になって複雑で苦い記憶に彩られる。

 コーチだった松平康隆は、市川崑監督の記録映画が完成したとき勇んで見に行った。ところが、170分に及ぶ映画に自分たちは一度も登場しなかった。女子バレーは主役の扱いだった。

(銅メダルでは相手にされない。絶対に金メダルを取る!)

 松平が固く心に誓った瞬間だった。

 同じ頃、チームメイトとタクシーに乗った猫田も似た経験をする。乗り込んだ大きな男たちを見て運転手が「何をやっているのか」と聞いた。「全日本の男子バレーボール選手です」と答えると、運転手は驚いた。

「男子もバレーボールをやっていたのですか」

 猫田らは言葉を失った。女子は国民的存在だが、銅メダルの自分たちはほとんど知られていなかった。

五輪前年に骨折

 期待通りエースセッターに成長した猫田は、68年メキシコ五輪でチームを銀メダルに導いた。残るは金メダルしかない。

「勝ったらアタッカーの手柄。負けたらセッターの責任」、猫田は割に合わない役柄を好んで受け入れた。自分は目立たなくていい。南将之、大古誠司、森田淳悟、横田忠義らに打ちやすいトスを上げる。多彩なクイック、時間差攻撃は日本の武器になった。さらに森田は“一人時間差”も完成させた。すべては猫田のトスがあってこそだ。

 ところが、猫田は五輪前年の9月、ゲーム中にフェイントを拾おうとして他の2選手と衝突、右腕を複雑骨折してしまう。懸命のリハビリを経て、試合に復帰したのは五輪開幕の2カ月前だった。筋力が落ちた上に、右腕が後ろに反り返らない。顔の前でトスを上げる動作はできても、バックトスに支障が出る。そこで猫田は、これを逆手に取って新たな武器とした。ネットに背を向けてトスを上げる。するとその瞬間が見えないため、相手の対応が遅れる。

 松平監督はやむを得ず、ミュンヘン五輪を若いセッター嶋岡健治との併用で戦った。大勝負は優勝決定戦(対東ドイツ戦)の一つ前、準決勝のブルガリア戦だった。2セットを奪われ、2セット奪い返して第5セットに入った。3対9でリードを許す。絶体絶命の場面で猫田が投入された。猫田はトスの巧さでブルガリアを翻弄、3連続得点を奪う。さらに勢いに乗った日本は15対12で大逆転を演じた。その劇的勝利は、“ミュンヘンの奇跡”と呼ばれている。

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 パリを舞台に“ミュンヘンの奇跡”の再来を願う国民は多いことだろう。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

撮影・本田武士

デイリー新潮編集部

「週刊新潮」2024年7月18日号 掲載