藤原道長は関白・兼家の五男として生まれ、若いころはなかなか出世できなかったという。そこからなぜ最高権力者になれたのか。歴史小説家の杉本苑子さんと永井路子さんの共著『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)より、2人の対談を紹介する――。
藤原道長像(画像=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■だれの娘が皇子を生むかどうかの競争

【杉本】摂関体制下での布石の第一歩は、まず娘を入内させるわけだけど、天皇を自分の家に連れて来るわけにいかないから、宮中に娘の居場所をしつらえて、女房をはじめ家具調度、何もかも運びこんで、天皇を婿に取りこむ……。

【永井】そう、ずいぶんいろいろな物を運びこんじゃうのよね。

【杉本】この外祖父母の力こそ、摂関政治を語る場合、見逃せない大問題だと思う。

【永井】そうね。だけど外祖父母の力は、娘が天皇にお嫁に行っただけではダメなんですよね。

【杉本】そうなの。皇子を産まなきゃ。

【永井】皇子を産んで、それが皇位を約束されるところまでいかないといけない。だから言ってみれば、子供を産む競争よね。実にえげつない。

【杉本】そう。道長が「欠けたることもなし」と自讃する所にまで行けたのは、娘がみんな優秀だったからよ。才色兼備、それもあるけど、じつにうまいこと、産んでくれているのよね。

■強運だった道長、運がなかった道隆

【永井】まず娘の彰子(しょうし)が一条天皇の皇子を2人。また、タイミングがいいのね。偶然とばかり言えない感じ。

【杉本】そうね。娘の年齢も、少々天皇より年上、というケースはあったにせよ、ほぼ釣り合って適齢期に達し、うまく入内できてる。だけど年回りも妊娠も人為を越えた偶然なんだから、やっぱり道長っていうのは、強運の人よ。

【永井】それに比べてお兄さんの道隆は、『枕草子』ではあんなに立派に書かれていても、運がないのね。娘の定子(ていし)が一条天皇のお后になっているんですけど、ついに彼女が懐妊して子供を産むのを見ないで死んじゃうのよ。(脩子(しゅうし)内親王・敦康親王の誕生は道隆の死後)

【杉本】そうなると、もう定子には強力な後楯がないから力を失ってしまう。それに生まれたのが皇子ではなく、皇女だったのも痛かった。摂関政治は偶然にたよる部分が非常に大きい。だから、それ加持祈禱(きとう)だ呪詛だ祟(たた)りだと、迷信的になるのも無理はない。

■藤原氏繁栄に付きまとう「失火」と「病死」

【永井】でも、ある意味ではもともと歴史には非常に偶然がある。戦後なんて、上層部が追放されたおかげで出てきた政治家がたくさんいるじゃない。

【杉本】戦犯やパージにひっかかって目の上の瘤がとれたおかげで、第二世代が浮上してゆけた。

それと、疫病ね。奈良朝末から平安朝という時代を考えるとき、流行病が歴史に及ぼした影響を度外視できない。藤原四兄弟(不比等の息子の武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の兄弟。それぞれ南家、北家、式家、京家の祖)が次々と死ぬとか、道長の時代に赤疱瘡(あかもがさ)の流行で要路の顕官が何人も死ぬなど、政局を変える大きな原因になっている。これも偶然。当時の医学知識では手の打ちようがないじゃない?

出所=『ごめんあそばせ 独断日本史』

だけども、そういう偶発的な事件の間を縫いながら、失火に見せかけた放火だの病死に見せかけた謀殺といった人為も働いている。例えば安和の変(969年、醍醐天皇の皇子、左大臣源高明(たかあきら)が藤原氏の陰謀で大宰府に左遷された事件)の直後に源高明の家が焼けたでしょ。

中関白家事件(伊周(これちか)の女のもとに通っていると誤解された花山法皇に、伊周の弟隆家が帰路を待ち伏せて矢を射かけた事件。内大臣伊周と権中納言隆家は流罪とされ、道長の権力が確立する)のときに定子(一条天皇の后、伊周の妹)の住居が焼けたのもそうだし、三条帝が退位する(外孫の敦成(あつひら)親王=後の後一条天皇を天皇に推し、摂政となろうとする道長は様々のいやがらせをして三条帝を退位に追いこむ)直前に内裏が焼けたなどという事件も、失火で片づけるにはうさん臭すぎる。

■あらゆる手段でライバルをいじめ抜いた

【永井】そう。それで、内裏が復旧したら退位すると言っていると、できた途端にまた焼けちゃってね。惨めな恰好で退位する。

【杉本】これでもか、これでもかといじめる。その、いじめの手段の一つに、政敵の屋敷を火にかけてしまうプランが組み込まれているわけよ。それから、病死に見せかけた毒殺。病死にしては実に怪しい、一服もったんでは、と思われる例がいっぱいあるでしょ。

【永井】そう、そう。

【杉本】それから、流言、呪詛、怨霊の利用。

【永井】今でいう情報宣伝戦ですよ。ソ連が攻めてくると脅して世論づくりをするとか。それをもう少しおどろおどろしくして、怨霊。言ってみれば、「スターリンの怨霊が……」というのと同じことなのね。(笑)

■平安貴族の政治的術策は現代でも通用する

【杉本】とたんに防衛費の追加予算が国会で認められたりして。(笑)ともかくそういうふうに、偶発と人為をたくみにないまぜて、政局を思うほうに持っていく能力……。

【永井】それは個人の能力でなくて、今でいう政党と同じよ。主流派と反主流派、それに野党。

【杉本】一人じゃなかなかできることじゃない。その意味で、藤原氏という一族はキラ星の如く能力者を輩出した氏族だったと思う。

【永井】そう、初めの不比等からそうよ。

【杉本】鎌足もそうだけど、特に不比等あたりから顕著になってゆくわね。四兄弟が疫病でポシャっても、仲麻呂だ百川(ももかわ)だ種継だ薬子(くすこ)だと、次々に凄腕が出てくるでしょう。

私は、だから日本人は、もっと藤原氏に注目すべきだと思うのよ。何かというとすぐ、織田、豊臣、徳川とくるけど、藤原氏が400年にわたって駆使してきた能力は、戦国武将の天下取りみたいな単純なものじゃないわ。

【永井】現代は、武力に訴えたり、独裁的にやれる時代じゃない。

【杉本】それなのに、「信長に会社経営の指針を学ぼう」だものね。

【永井】現代には信長や家康は通用しない。それにまた、信長などに対して誤解がありすぎるわね。彼はむしろ天才じゃなくて努力の人よ。

【杉本】社会背景も精神基盤もまったく違う。むしろ平安朝の高級官吏らが弄した政治的駆け引きだの術策のほうが、はるかに現代の政治悪や政界の在り方と共通するものを持っている。

■平凡な道長はなかなか出世できなかった

【永井】今度、道長を書いて(『この世をば』)みてわかったんだけど、彼の生涯は決していつもスムーズにいっているわけではない。いろいろ苦労があるし……。

【杉本】危機もあったわよ。

【永井】そう。むしろ平凡な人間なの。凡人が偶然にも権力の座につくめぐりあわせになって、かえって四苦八苦……。

【杉本】三男坊に生まれたことはかえって良かったと思うな。

【永井】当時は長男でないと出世しませんからね。三男というけど、五男なのよ。次男の道綱と四男の道義というのは腹ちがいで能力も人並み以下だったらしい。道長もなかなか従三位(じゅうさんみ)になれないで、20歳過ぎまでうろちょろしてるの。

【杉本】三位(さんみ)にまで昇らなければ、どうしようもないものね。三位になり公卿とならなきゃ、閣僚としての実力を発揮できないものね。

【永井】四位と三位というのは、今で言うと、普通の社員と取締役ぐらいの違いがある。

■「係長」が「総理大臣の娘」を狙い、門前払い

【杉本】だから三等重役であっても重役になるには、三位までいかなきゃ。

【永井】閣僚の尻尾が参議ですからね。しかし、これが難関でなかなか入れない。やはりいちばん強運なのは道隆でスイスイ上っていく。そこで、道長は源雅信という左大臣の娘に狙いをつけるんですよ。

ところが雅信は、「ダメ、ダメ。あんな嘴(くちばし)の黄色い若造は、三位にもなっていないじゃないか」。左大臣といえば総理大臣ですからね。中曽根首相の娘婿に通産省の係長では、まずいわけよ。(笑)

【杉本】だけど、倫子(りんし)のお母さんの穆子(ぼくし)、彼女は目があるわよ。

【永井】そう、人を見る眼があるわね。

【杉本】若き日の、まだ係長時代の道長に注目した眼力は、たいしたものよ。

【永井】でも、そういうふうに女の人が娘の結婚のイニシアチブをとるのは、古代からの日本のあり方ね。『万葉集』の歌を見ても、男が女のところを訪ねると、おふくろさんが目を光らせている。それで、「おまえの母に怒られて、俺はすごすご帰っていく」なんて言っている。雷オヤジはいないのよ。もっとも当時は通い婚だからお父さんは不在かもしれない。でも、とにかく母権は強い。

【杉本】いまさら女権の拡張をうんぬんするけど、歴史は母方の力で支えられもし、動かされてもきてますよ。

■子供の養育は母親とその実家の役割だった

【永井】それでいよいよ婿に迎えるでしょう。すると、この穆子は、下の妹に迎えた道綱――道綱というのは、母は『蜻蛉日記』の著者で、道長の腹違いの兄ですけど――と2人に、毎年ちゃんと衣服を一そろえプレゼントするの。これがかなりのものですよ。今度、佐倉の歴史民俗博物館でつくったら、1千万円以上かかったって。

【杉本】穆子は、道綱が頼光の娘の婿に鞍替えしたあとも、きちっとプレゼントしつづけたじゃない。女の意地かな。

【永井】道綱を迎えた穆子の娘は子供を産んで早く死んじゃうのね。道綱は母親が死んで可哀相だといってその子を可愛がるかと思いきや、倫子や穆子に子を預けてスイスイと頼光の娘のところへ行っちゃう。

【杉本】汚い言い方をすれば、男は種つけ馬にすぎないのよ。子供を養育するのは母親である女と、その里方(さとかた)の役割。

■「父・娘・皇子」が手をとり合うのが理想的

【永井】道長から見れば甥だけど、その子は道長の養子分になって出世するんですよね。それでも道綱は知らんぷりなの。しかし、道綱が冷たいというより、これが当時の父と子の関係であったらしい。

【杉本】今でも、結婚問題というと、イニシアチブをとるのは女親よ。

【永井】そうね、輝かしい伝統かな、これは。

【杉本】どこの馬の骨かもわからないわたしの家なんかでも、今、私という時点で見た場合、父方の親戚とはほとんど音信不通で、行き来しているのは母方の親戚よ。

【永井】おもしろいわね。それでしかも、一人の女が中心になって、その兄弟、娘たちが手をつなぐでしょう。道長も非常に恩恵をこうむっている。道長を引き立ててくれるお姉さんの詮子(せんし)は円融天皇の后になっていて、唯一人の男の子を産むんです。これが一条天皇になるんですが、一条天皇の時代はお母さんの詮子、そのお父さんの兼家がいるわけ。これが摂関体制の理想的な形なのね。

【杉本】三拍子そろってる。

【永井】父親がいて、娘がいて、その子供が天皇である。理想的「ジャンケンポン型」ね。一方的に強いものはいないんだけど、三者が手をとりあって行くのが一番いいのよ。

出所=『ごめんあそばせ 独断日本史』

■姉・詮子が道長を贔屓した理由

【永井】この兼家が死ぬと、道隆。これは詮子のお兄さん。一条天皇の后に定子を入れるけれど、さっき言ったように、定子に子供ができないうちに死んでしまう。その次がその弟の道兼。これが疫病にとりつかれて7日で死んでしまう。そこで、長男の道隆の息子の伊周がなるか、あるいは末弟の道長に行くか、その分かれ目に詮子がすごく頑張るんです。息子の一条天皇のベッドルームに入っちゃって、「どうしても道長にして下さい」と頼んで。

【杉本】あのときの東三条院詮子の道長贔屓はすさまじいわね。頑張りの裏に何があったんだろう。

【永井】伊周は甥であるけど、母親は高階貴子(きし)よ。藤原氏じゃないのよ。だから伊周がなったら、高階氏が威張りだす。

杉本苑子、永井路子『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)

【杉本】それじゃ、困る。

【永井】だから、定子や伊周は詮子の姪や甥だけど、彼らに対する愛情はあまりないのよね。

それからもうひとつ。道長は、詮子が可愛がっている養女の明子(めいし)を、第二夫人としてせしめちゃうの。それが道長の女運のいいとこ。

【杉本】明子は、詮子が「貰いなさい」と強力にすすめたんじゃないかしら。

【永井】兄貴たちは浮気でいけないと、近づけなかった。そこへ道長がモーションをかけていったらしいわね。

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杉本 苑子(すぎもと・そのこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。文化学院文科卒業。1952年『サンデー毎日』懸賞小説に「燐の譜」が入選したのを機に、選考委員だった吉川英治に師事。1963年『孤愁の岸』で第48回直木賞を受賞。その後、『滝沢馬琴』で第12回吉川英治文学賞、『穢土荘厳』で第25回女流文学賞を受賞。2002年菊池寛賞を受賞、文化勲章を受勲。そのほかの著書に『埋み火』『竹ノ御所鞠子』『悲華水滸伝』などがある。2017年没。
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永井 路子(ながい・みちこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』『王者の妻』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。
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(歴史小説家 杉本 苑子、歴史小説家 永井 路子)