古くからさまざまな伝承が残る「富士山」の歴史。江戸時代には富士登山が一大ブームに

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日本を代表する山、富士山は、日本人だけでなく多くの外国人観光客も魅了しています。そんな富士山ですが、古くから人々を魅了してきた歴史があります。

そこで、今回の記事では、そんな富士山と人々とのかかわりを紐解いていきたいと思います。

※本記事では富士登山を扱いますが、実際に登山される際は、天候・体調などに十分注意してくださいね。

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古くはさまざまな伝承も

葛飾北斎 富嶽三十六景 凱風快晴

飛鳥時代には、役小角(えんのおづぬ)という山岳信仰である修験道の開祖といわれる人物が流刑先の伊豆大島から毎晩海上を歩いて富士山へと登って修行をし、朝には戻っていったという記述が『日本霊異記(824年)』に見られます。

また、聖徳太子が馬に乗って空を飛んで富士登山をしたという伝説もあります。

これらは事実とは考えられませんが、「太子館」や「駒ヶ岳」といった名前は、こういった伝説が由来となっています。

奈良から平安時代にかけて、和歌にも詠まれた富士山

奈良時代から平安時代にかけては、富士山が和歌にも詠まれるようになっていきます。

たとえば、『万葉集』には富士山を詠んだ歌が11首あるといわれています。また、『新古今和歌集』では西行が富士山をテーマに和歌を詠んでいます。

さらに、歌だけでなく『竹取物語』や『伊勢物語』にも富士山が登場します。

平安末期以降、噴火が落ち着く

富士山の噴火活動が落ち着いてきた平安時代の終わりごろからは、山岳修行の場として登られるようになっていきます。1149年に末代上人(まつだいしょうにん)によって、富士山頂に大日寺が建立されると、それ以降、修験道の行者たちの道場として発展していきました。

江戸時代は富士登山が一大ブームに

江戸時代になると、富士登山にも少し変化が訪れます。それは、「富士講(ふじこう)」が登場すること。「講」とは団体・グループのことを指します。富士講は富士山を信仰する人々による組織です。

江戸を中心に特に関東で栄え、各地に多くの講ができました。お金をそれぞれ出し合い、富士講の中から選ばれた人々が富士登山を行い、利益を他のメンバーで分かち合うというもの。

ちなみに、今でも「富士塚」というものがありますが、これは富士講が富士山に見立てて作ったものです。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。